まものグルメ
蝉川 夏哉
一章 黒髪黒目の少女
第三話 遠征隊の帰還
耳を打つ音が小さくなる。
|回転棹《プロペラ》の動きが緩慢になり、飛空艇の高度がゆっくりと落ちているのだ。胃の腑にあるかなきかの浮遊感を感じて、ゼレクスは小さく息を吐いた。言うまでもなく、安堵の溜息だ。
飛空艇の船室に張り詰めていた空気が、弛緩する。
ここまでくれば、墜落の危険はほとんどないといっていい。飛空艇は飛竜と較べて事故の少ない乗り物であるが、それでも天を翔ける乗り物が危険と無縁であろうはずがなかった。
ゼレクスは自分を勇気に不足のある人間であると思ったことはないが、事故で死ぬことなど許されない身の上だ。その上、今は多くの部下を率いた遠征の最中でもある。
遠征。
そう、遠征だ。
この生活はいつまで続くのか、という疑問がまた鎌首を|擡《もた》げるのを、首を振って追い払う。
飛空艇が前傾するのを感じた。もうすぐ着水するのだ。
蒼き空に無数の世界が浮かぶここ|多島界《アーリスフィ》。
その中でも比較的小さな世界の一つが、ここ〈浮遊城〉だ。
〈浮遊城〉はその名の通り、城一つだけで世界を構成している、珍しい世界だ。今甲板へ上がれば、雲海に浮かぶ城塞を見ることができるだろう。
数年前に滅びたゼレクスの国の民は散り散りになり、その一部が難民としてこの城に寄寓させて貰っている。
ゼレクスたちの乗る飛空艇はこの〈浮遊城〉の外郭部にある、貯水湖の港に着水することになる。
足元から振動が伝わった。飛空艇がその身を湖面に浮かべることに成功したのだ。
「若、〈王国の希望〉|號《ごう》、無事に着水致しました」
丁重なノックの後、髭面のボルモントが報告のために顔を出した。ゼレクスももう二十五で、若という|齢《とし》ではないが、古くからの家臣にとっては、いつまでも昔のままに呼ばれている。
「ご苦労。全員、問題ないか?」
「負傷者の容態は変わらず。三人ほど空酔いした者がおりますがひどくはありません」
そうか、と笑顔で応えた。
今回の遠征では、死者は出なかった。それだけでも僥倖と思うべきであろう。
「艇長に下船すると伝えろ」
「既に伝達済みです」
本来なら手順の無視は問題なのだが、ゼレクスは口角を上げるだけで何も言わずに荷を背負った。呼吸の分かった部下は千金よりも得難いものである。
古さで軋むことの珍しくなくなった甲板へ上がると、心地のよい風がゼレクスの濃い空色の髪を揺らした。
予定時刻通りの帰還。
今回もまた、労多くして、益の少ない遠征だった。
足元から伝わる着水の衝撃と共に背中から広がる疲労を感じ、ゼレクスは首を回す。
身体は疾うに悲鳴を上げているが、部下や同盟者に弱いところを見せることはできない。
岸壁へ板が渡され、先ずは負傷者、続いて部下たちから下船していく。
飛空艇に満載してきた|戦利品《・・・》の詰まった箱も、沖仲士たちが運び出している。
迎えに来ているのは、見知った顔ばかりだ。その数も、随分と減ってしまった。
「亡国の王孫、というのは何とも難しい立場だな」
「まぁ、無事に帰って来られたのです。美味いものでも食べて疲れを癒しましょう」
手を振って歓声に応えながら独り言つと、脇に控えたボルモントが話題を変える。やはり、いい部下とは得難いものだ。
眼前には小ぶりな石造りの城が聳えている。
ゼレクスの城ではない。ここではゼレクスは単なる客将の一人に過ぎない。
「確かに、兵糧用の保存食には飽き飽きしていたところだ」
「若は飽き飽きするほど召し上がっていないでしょうに。食い足りぬ若い兵たちに分け与えていたのを見ておりましたからな」
バレていないと思ったのだが、さすがにボルモントは目敏い。
今回の遠征も、滅びに瀕している世界を救うためのものだ。
いや、滅びを遅らせる、と言った方がいいだろうか。
ゼレクスの故郷であるアナーシスは、数年前に滅んだ。世界が緩慢に歪んでいき、住むのに適さなくなった末のことだった。
国王であったゼレクスの祖父は国と共に在ることを選び、王子である父とゼレクスが遺民を率いて|多島界《アーリスフィ》中のあちこちへの移住を指揮したのだ。
苦しくなかった、と言えば嘘になる。
まとまった数の民を受け容れてくれる世界を探し、各界を文字通り飛び回った。
その過程で出会ったのが、〈城壁〉という組織であり、〈浮遊城〉だ。
〈城壁〉はゼレクスの故郷のように世界が歪んでいくのを食い止めるために戦っている。
ゼレクスは〈城壁〉に兵力を提供することを条件に、多くの遺民を受け容れてもらった。
つまり、ゼレクスは残された人々が安心して暮らすために、〈城壁〉の為に戦い続けなければならない。
それがこの〈浮遊城〉に受け容れてもらう条件であり、同時にゼレクスたちの願いでもある。
もう二度と、自分たちのような不幸な人々を生まないために。
「兵士たちの|労《ねぎら》いは、誰が担当する予定だ?」
「ルシェオスです」
ボルモントが髭をしごきながら答えた名前を聞いて、ゼレクスは低く唸った。
〈壁穿ち〉のルシェオスは少し前まで遠征隊の指揮官としてゼレクスを補佐してくれていた武人だ。
綽名の通り、難局を打開するだけの機転と率先垂範の度胸があり、兵たちにも慕われていた。
彼を〈浮遊城〉に置いていかねばならなかったのは、完全にアナーシス国の問題だ。
人材が、いない。
〈浮遊城〉の居候に過ぎないアナーシス国亡命政府は、極端な人手不足に陥っていた。特に、事務方の人間が足りない。
歪みゆく国から逃げる飛空艇の座席を、老臣たちが若者や女性に譲ったからだ。
以前から問題になっていたが、今回の遠征ではついに誰かを残していかねば日常の業務にも支障を来すような事態になってしまった。
〈浮遊城〉を拠点とする〈城壁〉は、言ってしまえば寄り合い所帯だ。
同じ目的を共有する仲間だが、駆け引きもあった。
ゼレクスが遠征に出るのなら、それなりの格の人間を残す必要があるが、任せられる人間はどうしても限られる。
そこで、断腸の思いでルシェオスを城に残したのだ。
「……〈壁穿ち〉に宴席の準備など任せてよかったのだろうか」
ゼレクスはルシェオスの武人としての才をこんなところで腐らせてよいのか、という意味で呟いたのだが、ボルモントは違った意味で受け取ったらしい。
「……難局を打破するのが彼の得意技ではありませんか」
「私はルシェオスの準備する料理に不安があるわけではないぞ」
「ええ、ええ。分かっております」
何も分かっていなさそうなボルモントに促され、艇と埠頭を繋ぐ板を降りる。
遠征隊の兵たちと荷運びが出迎えの人々と塊になっている方へゼレクスは歩を進めた。
ほっとする瞬間だ。
その時、ゼレクスは歩みを止めた。先導するボルモントも、止まる。
何か、いい匂いが漂ってくるのを感じたのだ。
「……ルシェオス?」
少し離れた埠頭の一隅で、ルシェオスが手を振っている。その後ろには、何やら大きな鉄板が置かれているのが見えた。
「はて、今日の労いはどういった趣向なのでしょうか……?」
訝し気な表情のボルモントの肩を、ゼレクスは軽く叩いてやる。
「いずれにしても、この匂いだ。少しは期待してもいいのではないか?」