まものグルメ
蝉川 夏哉
一章 黒髪黒目の少女
第八話 小早川まもりの過去
激動の日々、とでも言えばいいのだろうか。
まもりは第二食堂が開かれる予定の部屋で、椅子の背もたれに身体を預け、大きく伸びをした。
広い。
昔、もっとこの城の住人が多かった頃に酒場として使っていたという地下室には、いくつかのテーブルと椅子が積み上げられ、片付けられている。
更に昔は、何かの礼拝に使っていたのかもしれない、とまもりは思った。
どことなく、神社に似た雰囲気が感じられる。
薄暗い部屋に窓から射す陽が漂う埃を照らして、煌めく粒が光の帯の中を漂っているように見えた。
部屋の隅に、忘れられたように、小さな小さな|社《やしろ》のようなものが鎮座している。ちょうど、お地蔵さんの祠くらいの大きさだ。
まもりはエプロンのポケットから手ぬぐいを取り出して、埃を払ってやり、そっと手を合わせる。
ここは、空っぽだ。
かつての酒場時代の喧騒の名残はテーブルに刻まれた傷跡や、壁の汚れから感じられるだけ。
椅子の座面の上で体育座りをして、膝を抱く。
大人たちは別室でまもりの処遇を話し合っているようだ。少しでもいい扱いがされるように願っているが、どうなるかは神のみぞ知る、というところだろう。
ここは、どこなのだろうか。
忙し過ぎて頭の片隅に放り込んでいた疑問を、箱から恭しく取り出して検分する。
夢ではない。
触覚もあるし、味覚もある。明晰夢にしてもあまりにはっきりし過ぎているし、そもそも小早川まもりは生まれてこの方、白黒の夢しかみたことがない。
つまり、まことに信じがたいが、ここは現実である。現実をどのように定義するか次第だが。
死後の世界という線も疑ったが、大人たちの反応を見る限り、そういうことでもないようだ。
疲労に負けて重くなる瞼を若さの力でこじ開けながら、記憶の細い糸を手繰り寄せる。
ここ〈浮遊城〉に来る前、まもりは家出をしていた。
家出というか、独立というか、要するに、預けられていた遠縁の親戚の家を脱出したのだ。
行く当てはなかった。
つまり、完全に無計画な出航だったと言える。
こちらから絶縁を告げる簡単な書置きを残し、ほとんどない私物を放り込んだリュックサックを背負うと、夜へ向かって進撃の狼煙を上げたのだ。
三駅歩いて、祖父母がやっていた定食屋の跡が駐車場になっていることを確認する。
その後の予定は何もない。
まもりにとって予想外だったのは、ホテルというのは一泊するのに相当な金額が必要であり、かつ未成年だけでは宿泊できないことだった。
まぁ、そういうこともある。
幸い雨も降っていなかったので、まもりは足が棒になるまで歩いた先の小さな神社の軒先で眠ることにした。
何を祀った神社かは暗くてよく見えなかったが、たくさんの赤い幟と狐の像が見えたので、お稲荷さんかもしれない。
「ここではないどこかへ連れて行ってください」
賽銭箱に五円玉を放り込んで、手を合わせる。
ここではないどこかに行けば、そこでなんとかやって行けるだろう。
小早川まもりには、根拠のない自信がある、と思っている。
祖父母に仕込まれた料理の腕があれば、食うには困らないだろうという自信だ。
きっと、やれる。
歩き疲れていたのか、眠りの|帳《とばり》はすぐに下りた。
明日はきっと、いい日になる、はずだ。
目が覚めると、空の上にいた。
今にして思えば、あれは〈浮遊城〉の端っこだったのだろう。
あと一回転していれば、空の藻屑と成り果てていたかもしれない。
寝相よく産んでくれた両親には、感謝の言葉しかない。
慌てて飛び起き、よく分からないままに走り回った。少なくとも、遠縁の親戚の住むあの街でないことだけは確かだ。
祈りが通じたんだ! と嬉しくなったら、次は衣食住の確保だ。
「とりあえず、寝るところが必要だ」
幸いにして空の上の島に住んでいるここの人たちは余所者には慣れているらしく、誰もまもりのことを見咎めることはなかった。
まもりの知るいわゆる人間だけでなく、直立二足歩行する動物のような人やトカゲのような人、鳥のような人にイルカのような人まで、姿かたちも様々な人々が歩いているから、余所者くらい気にならないのかもしれない。
何故か言葉が通じるのは、幸いだった。
街並みは明らかに現代日本のそれとは違って、かなり頑丈そうだ。
島には大きな湖があり、そこから水路がいくつも流れ出ている。最終的に島の縁に流れ着いた水は遥か下方の海へと虹を作りながら滝のように零れ落ちていた。
水飛沫の間を縫うようにして、腹の下に荷物を吊るした翼竜が行き交っている。近くに見える浮遊島への荷物を運んでいるのだろうか。
食べるものがなかったので物乞いをしようかと思ったのだが、意外な方法で解決した。
【下拵え】である。
街で研究者が捨てようとしていた魔物の死骸が、何故か食べられるような気がして引き取ったのだ。
果実型の魔物だった。少し大ぶりの林檎に、一つ目と牙だらけの口が付いている。
死骸に向けて【下拵え】と唱えると、不思議な力で食品が浄化され、見た目も香りも美味しそうに変化したのだ。目と口は、消えてなくなった。
恐る恐る食べてみると、瑞々しくて美味しい。
紅玉のように酸味が強いが、甘みも申し分がなかった。
何故こんなことができるのかは自分でもよく分からなかったが、あまり気にしないことにした。今は考えるべきことは無数にある。
幸い、住むところと仕事はすぐに見つかった。
この島では日雇いの働き口は無数にある。だが、寝泊りできる場所も一緒に、となると相談に乗ってくれた人たちも困った顔を浮かべたが、茶屋が料理人を募集しているところにたまたま遭遇したのだ。ラッキーとしか言いようがない。
客寄せに適当な料理を作ればいいと言われたので、市場を回って予算の範囲内で出せる料理を考える。
祖父母の店で帳面つけまで習っていたのが役に立った。
学校の成績はそれほどでもなかったが、店のこと、料理のことなら砂場に水を撒くように何でも吸収してきたから、こういう時にも動じることはない。
茶屋には小さいながらも倉庫が三棟あり、商品の茶葉を入れておく倉庫、茶道具を入れておく倉庫と、それ以外のガラクタを仕舞っておくものが並んでいる。
まもりは三つ目の倉庫の隅に毛布を持ち込み、巣を作った。
この島の建物は頑丈なだけでなく、温かい。寒さ対策で扉が二重になっているのだ。空を飛ぶ島に暮らすものの知恵だろうか。
まもりが料理を振る舞うようになると、茶屋の前には行列ができるようになった。
〈客寄せには、匂いのいいもの〉という祖母の教えを守った結果だ。
高校の文化祭でもまもりのクラスは学年史上最高売上額を記録し、生徒指導の教師たちから呆れの混じった賛辞を贈られたほどだった。
三日も経つと茶屋はしぶしぶながらまもりにかなりの裁量権を渡してくれた。
こうなると、俄然やる気に火が付く。
自分が家出娘であることなんて忘れたように、まもりは我武者羅に売って売って売りまくった。
やればやるほど結果が出る。些細な失敗はあったが、機転を利かせて解決できたときは更に嬉しくなる。
ルシェオスに出会ったのは、そんなある日のことだった。
そこまで思い出したところで、まもりは物音に気が付く。
大人たちの話し合いが終わったのだろうか。なるべくまもりにとって条件のよい合意がなされていればいいのだが。
頭の中で算盤を弾きながら顔を上げると、“それ”と目が合った。
「お主、何者だ?」