キマイラ文庫

まものグルメ

蝉川 夏哉

ビューワー設定

文字サイズ

フォント

背景色

組み方向

まものグルメ

蝉川 夏哉

一章 黒髪黒目の少女

第十七話 魔力切れ

「魔力切れです」


 手首での診脈を終え医師が診断を下すと、食堂には安堵の吐息が満ちた。

 海藻豚の【下拵え】をしようとしたマモが倒れたという知らせはラクサー・ギフが大声で復唱しながら医師を探しに出たために、一瞬で城内に広まったのだ。


 遠征から戻ったばかりのゼレクスやボルモント、〈城壁〉との折衝に当たっていたルシェオスだけでなく、城主であるオ・クランクランまでが駆けつけたので、食堂は針を立てる隙間もないほどに込み合っている。


 臨時の診察台代わりのテーブルに寝かせられたマモはまだ目覚めていない。

 オ・クランクランは異邦の少女の血の気の失せた顔を見ながら、複雑な思案を巡らせていた。


 魔力切れ。

 祝福や魔術の使い過ぎで、軽重の差こそあれ、誰にでも起こり得る症状だ。そんなことは|多島界《アーリスフィ》に暮らす者ならだれでも知っている。


 問題はそれぞれの祝福や魔術、そして個人の能力によってどれくらいで魔力切れになるのかは大きく差があることだ。

 回復にも、個人差がある。一時間の大休止ですっかり回復してしまう者もいれば、大魔術を行使した結果、数ヶ月単位での回復期間を余儀なくされた魔術師もいる。多くは一晩眠れば回復してしまうとされているが、マモがどうなのかはまだ分からない。


 今、オ・クランクランを悩ませているのはその点だった。

 竜王国の古鱗院には「食糧不足問題解決の切り札」発見を匂わせる報告を送っている。

 あの爺婆たちが素直に信じるはずはないが、いくらか興味が搔き立てられているはずだ。蜥蜴たちはいい歳をして、利に敏い。


 ひょっとすると〈浮遊城〉への支援に何かしらの積み増しを検討することもあり得る。

 オ・クランクランが心配しているのは、その点だ。

 レオ・ブルカリンという若者が遠征病を克服し、活躍したという報告を送ったのが数日前。古鱗院だけでなく、竜王国軍令部まで大騒ぎになっているはずだ。


 そこで思い返されるのが、オ・クランクラン自身の送った「食糧不足問題解決の切り札」を匂わせる報告。

 短期間に連続で〈浮遊城〉からもたらされた二つの情報を結び付けて考えない愚か者は、寿命が永遠より少し短いだけの竜の政界で生き残ることはできない。


 今頃、算盤を弾いているであろう奴がごまんといるはずだ。

 時間。そう、すべては時間が悪い。

 救世の期待の盛り上がったところに、「コバヤカワ・マモの【下拵え】は魔力切れの問題があり、使用には限度がある」という知らせが届くことになる。


 厄介だ。

 沸騰した鍋に冷や水を注げば、気分が萎えるどころの騒ぎではない。

 既に何らかの投資をしている商人たちは大損をするはずだからだ。勝手に勘違いして勝手に損をした莫迦にまでオ・クランクランは責任を持てないが、そいつらが哀れな〈浮遊城〉城主に仄暗い恨みの炎を燃やすであろうことは想像できる。

 商業連合は露骨な手段(例えば刃物や毒物を使うような!)を好まないが、もう少し迂遠な方法でオ・クランクランの頸動脈に圧力を加える素振りを見せるかもしれない。


 伯爵という地位が防御壁として機能するところを望むばかりだが、オ・クランクランの地位を狙って追い落とそうと考えている廷臣の数を数え上げれば、それだけで軍団規模の兵士の手指と足指を全部使うことになる。


 とは言え、今のオ・クランクランにできることは何もない。

〈浮遊城〉と竜王国本国との周天軌道の違いと現在の距離を呪いながら、せめてマモが早く回復してくれることを願うしかできないのだ。


「ラクサー・ギフ、マモの負担を減らす方法はあるか?」


 オ・クランクランは城主らしからぬ親しみを込めて、豹人の女戦士に問いかけた。

 彼女がマモの不調に対して地の下に沈み込みそうなほどに責任を感じていることを見て取れたからだ。こういう時は気を紛らわせるためにも、別のことを考えた方がいい。


「ラクサー、とても働いた。マモももっと働いた。でも、客が多過ぎた」


 ラクサーの言葉に、環視する客たちが何とも気まずそうな雰囲気になる。

 遠征病を治せる料理、ということで遠征病患者だけでなく冒険者と戦士が詰めかけたのなら、限界を超えて忙しくなったことは想像に難くない。

 オ・クランクランには食堂の経営に関する知識はなかった。けれども、官僚として、この世の全ての手続きに共通する問題は理解している。


「なるほどな。では、|当面は《・・・》客数を絞ろう。それと追加の店員が必要だな」


 ラクサーが大きく頷いた。

 喫緊の課題はこれということだ。


 そこでオ・クランクランは、はたと気が付いた。

 これまではこういう時の人材プールと考えていた遠征病患者が、戦士や冒険者として復帰するのだ。

 もちろん、遠征病が快癒しても元の職に戻りたくないという者もいるだろうが、今までの様に雑用に回すことは必要ないし、できない。


 何より、食堂勤務だ。

 調理ができるかどうかという視点でオ・クランクランは人を見たことがないから、誰が適任であるか全く想像がつかなかった。

 できそうに見えて卵も割れないような奴を補助に回せば、せっかくのコバヤカワ・マモが〈浮遊城〉を出て行ってしまうかもしれない。


「……人選は、すぐには決められないか」


 いずれにしても、コバヤカワ・マモによる採用面接が必要だ。回復を待ってから、ということになる。


「それで、魔力切れの方はどうなのだ?」


 マモの頭を傾けさせて、慎重に嚥下するかを確かめながら飲み薬を服用させていた医師はオ・クランクランの方を振り返りもせずに答えた。


「ま、一晩というところでしょう」


 医師の見立てに、ほっとした空気が食堂を満たす。

 オ・クランクランは管理者に感謝の祈りを捧げたい気分になった。そういえばここは昔、管理者を祀っていた部屋ではなかったか。


「とにかく、今は安静になさって。目が覚めても急に無理はさせんことです」


 早々に診察鞄に道具を仕舞いはじめる医師を見ながら、オ・クランクランは竜王国への新たな報告をどうするか、頭を悩ませるのであった。