キマイラ文庫

まものグルメ

蝉川 夏哉

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まものグルメ

蝉川 夏哉

一章 黒髪黒目の少女

第十八話 〈管理者〉様、再び

 暖かい。


 ちょうどいい湯加減のお風呂に浮かんでいるような気分だ。

 心地よさに手足の指の先々まで満たされ、内側に溜っていた疲れや悪いものが泡になって溶けて出ているように感じる。


 目を開けると、どこまでも広がる美しい水面を光る漣が走っていた。

 綺麗だ。

 ここが現実ではない、ということはまもりも頭の芯の方では理解できていた。

 では、ここは夢なのだろうか。


 不思議な空飛ぶ世界で食堂を開いたところまで、全部が全部、夢なのかもしれない。




 |揺蕩《たゆた》いながら、浮かんでは消える考えを弄ぶ。

 考えるのは、営業する食堂のこと。

 見たこともない大きさの鳥の脚なんかの食材のこと。

 調理の出来不出来。

 そして何よりも、食べて喜んでくれたお客さんの笑顔だ。


 あれは、嬉しかった。

 自分にも何かできるんだ、という自信が湧く。

 茶店の横で客引きの料理を作っていたときも思ったけれども、まもりは料理をして人に食べて喜んでもらうことが好きなのだ。

 癒すとか、遠征病の治療だとか、はっきり言ってしまえばまもりにはどうでもいいことだ。

 作って食べて貰って喜ばせる。それだけが大事なのだ。


 そうだ。

 早く戻らなくては。

 お客さんを待たせている。

 きっとラクサーが上手く対応してくれているが、料理ばかりはまもりの担当だ。

 戻って料理して、お客さんを満足させよう。


 湯を掻くように手足を動かしてみるが、手応えがない。

 それではじめて、まもりは不安になった。

 自分は今どこにいて、どういう状態なのだろう。


 今度こそ死んでしまったのだろうか、と少し不安になる。

 異世界に飛ばされるだけでも相当な話だが、“過労”という嫌な言葉が脳裏をよぎった。

 考えてみれば、ここは天国のようにも思える。

 やはり、死んでしまったのだろうか。

 急にぶるりと寒気が体の奥底から湧き上がってくる。

 怖い。

 不安が心臓のあたりを鷲掴みにしてきた。


「おぉ、また会ったな」


 そんな不安を打ち砕くような声が、不意に頭上から聞こえる。

 頭をそちらの方へ向けると、光が凝集して次第に人の形になった。

 見覚えのある容貌、服装だ。


「〈管理者〉様!」


 食堂を開店する前に会った、〈管理者〉の姿がそこにあった。

 地獄に仏、という喩えがこの場合正しいのかは分からないが、知った顔を見るのは心強い。


「コバヤカワ・マモ。お前の供えてくれた料理はどれも美味かったぞ。たまにでよいといったのに、毎食供えるとは感心な奴よ」


 心底嬉しそうな笑みを浮かべながら、龍の角を生やした少年姿の管理者は思い出し舌なめずりをする。


「それはよかったです」


 〈管理者〉様の口に合った、と聞いてまもりはほっとした。

 神様のような存在だから、少し薄味にした方がいいのか、とかいろいろと考えてしまったが、杞憂だったようだ。


「〈管理者〉なんてそもそも何も食べる必要はないんじゃがな。それでも、供えられれば嬉しいし、美味しい。元気も出る。儂に言わせれば、最近何かと元気のない管理者たちも、マモの作った料理を食べればええんじゃ。そうすれば訳のわからん病気なんぞきっとよくなる」


 うむうむ、と微笑みながら頷く〈管理者〉様の表情は少年のそれのようでいて、好々爺のような落ち着きも湛えている。

 そこで、まもりは思い切って訊いてみることにした。


「あの、すみません……ところで。ここはどこですか?」

「ここか? そういえばお前さん、どうしてここにおるんじゃ?」


 尋ねたはずが、逆に訊き返されてしまう。つまり、普通は人間の来るような場所ではないということだろう。


「ここはなんと説明したらいいのか……心や精神の空間だな。あまり生きている人間の来るところではない」

「そうなんですか……」

「心配せんでも、死後の世界ではないからな」


 しゅんとしたまもりを気遣ってか、〈管理者〉様はすぐに悪い想像を打ち消してくれた。


「で、その心と精神の空間に、どうしているのか、と……ああいい。説明せんでもこちらで読み取ろう……ああ、なるほど。働き過ぎじゃな。それと恩恵の使い過ぎか。ま、無理もないな。使いはじめの内は加減が分からんものだ」

「そういうものですか」


 うむ、と〈管理者〉様が大きく頷く。


「つまり、無理のし過ぎだ。恩恵を使えるといっても、人は人。分を超えて何かをなし得るのは、人を超えておるよ」

「……はい」


 分を超える、と言われてもまもりにはあまりピンとこない。

 ただ料理を作ってお客さんが喜ぶのが愉しくて嬉しくてやり過ぎただけなのだ。


「まぁ、お前さんがお供えをしてくれたことで儂の力もほんの少し回復した。マモ。お前さんを身体に戻してやろう。それと恩恵をもうちょっと使ってもぶっ倒れんように、加護も足してやる」

「ほんとですか!」


 実のところ、元の食堂に戻っても【下拵え】があまり使えないのは不便だなぁと思っていたのだ。


「う、うむ。ただそれでも限界はあるからな。無理はするなよ」

「はいっ!!」




 そう答えつつも、まもりは何か抜け道はないかと考えている。

 一度はこのまま死ぬかも知れない、と不安になったのに自分でも現金なものだと思うのだが、懲りないものだと自分でも感心してしまう。


「それではお前さんを身体に戻すぞ」

「よろしくお願いします!」


 我ながら、神様のような存在を相手によくぞここまで物怖じしないものだと思いながら、目を閉じる。

 頭の中にはもう、帰ったら何を料理するかのことでいっぱいだ。



「……モ、マモ!」


 ラクサーの声が聞こえる。

 まもりの手を握り、呼びかけているようだ。


「起きた! マモが起きた!!」


 まもりの瞼が開いたのを見て、ラクサーが歓呼の声を上げた。

 それに応じるかのように、周囲で心配そうに見守っていた人たちも、ある人は大声で、またある人は控えめに喜びの声を上げる。

 喜んでくれるのはありがたいが、ちょっと煩い。


「よかった。ラクサー、ずっと心配してた」


 感極まった豹人の女戦士が、覆いかぶさるようにして抱きしめてくる。

 何とも言えないいい匂いだ。猫吸いというのは、こういうことをいうのだろうか。


「心配かけてごめんね、ラクサー」


 まもりはゆっくりとラクサーの頭を撫でてやる。

 明日から、また食堂を頑張ろう。

 ただ、頑張り過ぎないようにしよう。

 また変なところに飛ばされてはかなわないから、とまもりは思うのであった。