キマイラ文庫

まものグルメ

蝉川 夏哉

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まものグルメ

蝉川 夏哉

一章 黒髪黒目の少女

第六話 〈平穏伯〉と、タコ

 〈平穏伯〉ゲール・オ・クランクラン


「閣下、ゼレクス王子より会見を求める先触れが来ております」


 部下が執務室の扉を|敲《たた》いた時、〈浮遊城〉の城主であるゲールは城主執務室で秘書官と並んで書類の山と格闘している最中だった。

〈平穏伯〉ゲール・オ・クランクラン。

 狸人族の|尾人《びじん》でありながらその優れた行政手腕で竜王国の危地を幾度となく救ったゲールだったが、〈浮遊城〉の城主という地位には些か倦怠を感じている。

 一官僚から貴族、それも諸侯である伯爵にまで登り詰め、更には|多島界《アーリスフィ》にも稀な移動可能な世界を任されたことは誇るべきである。

 長命な尾人であっても、ここまでの功績を挙げたものは歴史的に見てほとんどいない。

 それでもゲールが倦んでいるのは、この職の先が見えないからだった。


〈城壁〉と連携し、世界の滅びを防ぐ。


 言葉にすればたった一言だが、その困難さは想像を絶する。

 ゲールの理解するところ、今の戦況は事態を遅らせているに過ぎず、その効率も極めて悪い。

 ヤドリギに冒された世界は多く、〈城壁〉の兵力はあまりに少ないからだ。その〈城壁〉にしても、ヤドリギの影響を完全に排除することはできず、世界が失陥するのを遅らせるのがやっとという有様。

 竜王国は物心両面で〈城壁〉を支えているが、これでは「海に石を投げて島を作る」になりかねない。

 せめて明るい材料でもあればいいのだが、というのがゲール・オ・クランクランの考えるところだ。


「アナーシス王国のゼレクス王子か。遠征隊が帰ってきたのだな」


 肉球のある手で書類に押印する。

 今決済しているのは、竜王国本国に食糧の補給を願い出る書類だ。〈浮遊城〉は世界としては所帯が小さいが、〈城壁〉の戦士たちや冒険者など食糧生産に従事しない人間が多いので、消費地としての性格が色濃い。交易や戦利品の売買によって自助を進めているが、それでも食糧の供給は常にギリギリで、いつも腹いっぱいに食わせられるというほどではない。


 眉根を揉みながら、ゲールは城主執務室の壁に顕彰されている歴代城主の肖像画を眺める。

 竜人族の武人が、圧倒的に多い。

 大陸周天軌道を無視して移動できる〈浮遊城〉は歴史的に見れば竜王国の軍事的な切り札であり、攻撃にも防御にも重要な役割を担ってきた。

 その〈浮遊城〉の主を今ゲールに任せられているのは、ひとえに食糧の供給を含めた兵站の困難さにある。


 様々な要因から、多島界における食品の相場価格は上がり続けていた。短期的に下落することはあっても、トビイヌのような嗅覚で大商会がかぎつけ、買い占めてしまう。

 どこかから魔法のように食糧が湧いて出るようなことでもなければ、ゲールの心労は増すばかりだ。


「お通ししてもよろしいですか」

「もちろんだ。謁見室へお通ししろ。粗相のないようにな」


 亡国の王子とはいえ、王子は王子。

 しかも〈城壁〉にいくつもない遠征隊の指揮官である。

 文官であるゲールには常に命のやり取りをせねばならない前線指揮官に敬意を払い続けるだけの良識はあった。


「何かいい土産話でも持って帰ってくれれば、なおいいのだが」


 秘書官にも聞こえないほどの声でゲールは嘆息する。

 同盟者である〈城壁〉の面々に明かしてはいないが、〈浮遊城〉の財政は既に火の車で、竜王国本国からも至急の改善を求められていた。

 竜王陛下の大御心によって全面的な支援が約束されているから今すぐにどうこうということはないが、何か希望の抱ける材料でもなければ、早晩、支援の縮小を古鱗院の爺婆たちから提議してくるのは火を見るより明らかだ。


 謁見室への廊下を歩きながら、ゲールは不意に空腹に気が付いた。

 今朝から何も食べていない。いや、昨日の昼食からか? 頭蓋骨の中には数字と法律用語が渦巻き、生活のことは後回しになっている。

 食べなければ能率が落ちることは理解しているがその暇がないし、食糧不足の折に自分だけたっぷりと食べることに後ろめたさもあった。

 市場へは優先的に食料を回しているので〈城壁〉の戦士や冒険者たち戦闘職の人間にあまり不足は感じさせていないだろうが、城に勤める者たちにはかなりの無理を強いている。

 それでも晩春になれば収穫期がやってくるから、どこかの世界で物資を買い付けることができるはずだ。それまで辛抱すれば一息つけるはず。


 そんな算段を立てていると、謁見室の方から、堪え難いほどに食欲をそそる香りが漂ってきた。




「ゼレクス殿下、ご無事で何より」


 扉を衛兵が開け切るのももどかしく、ゲールは謁見室に速足で入室した。

 アナーシス王国の王子ゼレクスと、その家臣であるボルモント、それにルシェオスが頭を下げる。だが、ゲールの目に留まったのはその三人ではなく、一歩引いて頭を下げている一人の少女、さらに言えば彼女の持っている皿だ。

 なにかの麺料理だろうか。腹立たしいほどにいい香りがゲールの鼻孔をくすぐり、ヒクヒクと動きそうになる鼻を必死に止めなければならない。

 これまで幾度となく遠征終了の会見は経験しているが、興味深い戦利品ならともかく、料理を持ってきたという記憶はなかった。


「遠征隊、今回も無事に帰還しました。重傷者二名、軽傷者は六名、死者はありません」

「それは重畳。今回もお疲れさまでした」


 丁重に応じながらも、ゲールの視線は麺料理の皿に釘付けだ。

 いつもと変わらない報告はいいから、早くあの麺料理について説明してくれという絶叫が喉まで出かかっている。


「……ところで、そちらの女性は? はじめてお目にかかるようだが」


 食欲と胃の鳴りそうになるのを必死に堪えながらゲールが尋ねると、ゼレクスが申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「本来であれば手順を踏んで改めてご報告の場を設けるべきなのですが、今回の件は緊急性が高いと判断し、遠征完了報告と同時に報告を申し出たことをお詫びします」

「いやなに、〈城壁〉と竜王国は強固な絆で結ばれた盟友。些細な手続きなどより、実利を取るべきでしょう」


 持って回った挨拶はいいから、はやく麺料理を! と言いたくなる。


「遠征の慰労のためにこちらのコバヤカワ・マモという少女を雇用して料理の用意を依頼したのですが」

「なるほど、その慰労の料理のご相伴に与らせてもらえる、ということかな?」

「ゲール殿、結論をお急ぎなさらぬよう。実はこの麺料理もさることながら、それに添えられているタコの方が重要でして」

「タコ?」


 確かに麺料理の横に炒めたタコが添えられている。狸人の発達した嗅覚はこれが何らかの豆の|醤《ひしお》で味付けされていることまでも嗅ぎ分けられる。


「このタコが、どうしたと?」

「……実はこのタコ、ヤドリギの魔物を【浄化】したものなのです」


「……は?」