まものグルメ
蝉川 夏哉
二章 【マモのグルメ】と迷宮攻略大作戦
第七話 〈平穏伯〉の悩み
〈平穏伯〉ゲール・オ・クランクランは、悩んでいた。
優秀な文官貴族として竜人でもないのに竜王国でこの地位に辿り着いた彼にとって、悩みは親しい友人のようなものである。
果断さは王や将帥に求められるものであり、文官とは慎重で先賢の知を敬い、可能性を虱潰しに考え、その後に全てを捨てることのできるような者であるべきだ、と彼は考えていた。
そのオ・クランクラン伯をして、今直面している問題は、これまでに経験してきたありとあらゆる難問と比しても、まったく異種の思索を彼に強いている。
「……まずは、何から食べるべきか」
オ・クランクラン伯、いや、ゲールの目の前には、一つの弁当があった。
何と言うことはない、普通の弁当である。冒険者の携行糧食として、〈浮遊城〉でも弁当は様々な種類のものが販売されているから、目新しいということはないはずであった。
そう、これが普通の弁当であれば何も問題はない。
これは【マモのグルメ】の弁当なのだ。
「カラアゲ、アツヤキタマゴ、エビフライに赤ウインナー。そして、オムスビか……」
それぞれはどんな料理かおおよその見当はつくが、敢えてマモの呼ぶ通りの名前を、舌に転がしてみる。不思議な響きだ。まるで山の渓流に遊びに出かけて、そこで食べるような胸の高鳴りがある。
今や整理券の抽選に行列のできる【マモのグルメ】の弁当がここにあるのは、決してオ・クランクラン伯としての職権乱用の結果ではない。
オ・クランクランは竜王国の文官貴族としては極めて清廉潔白なことでその名を知られる人物である。弁当欲しさのために〈浮遊城〉城主としての権力を振りかざす暴君のようなことをするはずがない。
これは、余ったのだ。
正確を期すなら、余らされた、というべきだろう。
悪いことを考える奴がいるもので、整理券を使って発注する弁当の数を【マモのグルメ】に水増しして伝えたのだ。
これに気付かないラクサーではない。
不審を覚えて調査を行い、あっという間に企みを見破ったのだ。さすがは元々〈浮遊城〉の衛兵の中でも優秀さをもって知られた女傑である。
ところが、弁当は既に作られてしまっていた。
そこはマモ。ラクサーが調査している間にも、「ひょっとしたら必要な人がいるかもしれないから」と弁当を作っていたのだ。
結果、弁当は回りまわってオ・クランクラン伯に献上されることとなった。
決して、強請ったり、欲しがったりしたわけではない。誰に渡すつもりなのか何度も使者を送っただけのことだ。今や【マモのグルメ】の弁当にはそれだけの価値がある。決して、自分が食べてみたかったからではない。
見ているだけで、口の中にじわりとつばが湧いてきた。
やはり、メインであるカラアゲから行くべきだろうか。パリッと揚がっているカラアゲは見るからに美味しそうだ。いやここは味の濃さそうなカラアゲよりもアツヤキタマゴからという手もある。エビフライには特別感があるから、終盤に取っておきたい。ゲール・オ・クランクランは楽しみは後に取っておく性質なのである。ここで重要になってくるのが、赤ウインナーの存在だ。これも塩気と油気が強そうであり、エビフライの直前に持ってくるとその出会いの感動が損なわれてしまう。ではどのような配分でオムスビを使っていけばいいのか。
悩ましい。
実に、悩ましい。
食器を持つ手が二度、三度と空を切る。
文官貴族として厳しい予算案の折衝に臨んだ時でさえ、ここまでは悩まなかった。
自分の思慮深さは、つまりは優柔不断の裏返しであることをゲールはよく知っている。であるが故に、一度決めてしまえば楽になることが理解できていても、その後に「よりよい案」を思いついた時の後悔を想って一歩を踏み出せない。
どうするべきか。
いや、決める。
まずはカラアゲだ。
迷う自分とは、今日で決別する。
そう思ってカラアゲを食べようとした、正にその瞬間。
「城主様! 急報です!!」
「こちらも急報です!!」
二人の伝令が、まったくの同時に城主執務室に飛び込んできた。
常ならばありえないことだ。普通は手順を踏んで、執事が取り次ぐ。それすら省いたということは、よほどの急報に違いない。
どちらの報告を聞くべきか。二人の伝令の目は血走り、いずれが重要なのかを表情から窺い知ることはできない。
ええい。
ゲール、いやオ・クランクラン伯は自身を叱咤する。
悩む自分はやめたのではなかったか。カラアゲを選ぶことのできた自分だ。伝令を選ぶこともできる。
「ではそちらの報告を先に聞こう」
向かって右の伝令に視線を向けると、恭しく書状を差し出してきた。
伝令は書状と共に内容を口頭で伝える場合もあるが、今回は書状だけのようだ。
呪紋で封印された書状を解き放ち、内容に目を通す。
そして。
オ・クランクランは、椅子から崩れ落ちそうになる。
竜王国からの書状は、事実上の”命令”を伝えるものだった。
独立性の極めて高い〈浮遊城〉に竜王国本国からの命令が下されることは稀である。
どれくらい稀であるかと言えば、ここ数十年は記録がない、というほどに異例のことなのだ。
通常であればあくまでも方針を示すだけの竜王国からの”命令”の内容がまた、凄まじい。
『〈城壁〉と協力し、九等級以上の〈歪み〉を攻略せよ』
〈歪み〉には等級がある。
大きければ大きいほど、等級が上がり、十等級より上の〈歪み〉を”攻略”できた例は、オ・クランクランの知る限り、ない。
そこまで大きく成長してしまった〈歪み〉は、これ以上の拡張を防ぐために冒険者と斧手を大量に投入して、現状維持を図るのがやっとだ。多くの場合、そのまま世界が〈歪み〉に呑まれて終わることになる。
「……古鱗院の爺婆共め」
オ・クランクランは【マモのグルメ】から届いた弁当を一瞥した。
竜王国の情報網は、広く、速い。
先日キーオ・カンピュールが攻略したばかりの〈光塵の砂漠〉の情報を得たのだろう。
あそこの等級をすぐには思い出せないが、十四等級くらいだったのではないか。その最奥まで辿り着き、ヤドリギの伐採に成功したということは快挙であり、【マモのグルメ】の効果の表れでもある。
〈浮遊城〉への支援を増やすために竜王国本国に様々な情報を送っているオ・クランクランだが、それが裏目に出た格好だ。
古鱗院は「この機会に効果をはっきりと分かる形で示せ」と言っているのだ。
九等級の〈歪み〉が攻略されることになれば、竜王国以外の列強も目を向けざるを得ない。
今はまだ竜王国以外の列強は〈歪み〉やヤドリギ災害に無関心な姿勢を見せているが、同盟国からは支援要請が相次いでいることは周知の事実だ。
これは、好機なのか?
ちょうど〈城壁〉の戦士たちも冒険者も、いい状態にある。
支援物資を〈浮遊城〉から出せば……
いやいや、欲を掻いては失敗する。何か大きな好材料でもない限りは。
オ・クランクランはこの問題を無理やり頭から振り払い、もう一人の伝令の方へ視線を向けた。
こちらは何を急報として持ってきたのか。
もはや何を言われても驚きはしない。
「畏れながら申し上げます」
「うむ」
「〈歪み〉が……先日攻略された、〈光塵の砂漠〉が、完全に消滅しました。完全に、です」
「……は?」
今度こそ、ゲール・オ・クランクランは、椅子からずり落ちた。