まものグルメ
蝉川 夏哉
一章 黒髪黒目の少女
第十話 馭竜のレオと、遠征病
レオ・ブルカリンは桶からたっぷりと油脂を手に掬い取った。
表面は外気で緩んでいるが、指先は奥の冷たくまだ粘性の強い部分に当たる。
両掌を合わせて人肌に温めてやってから、翼竜の鼻づらの前に突き出した。
翼竜は鼻先を近づけてレオと油脂の匂いを嗅ぐ。鼻孔から、湿った息が掌と手首にかかった。
しばらく確かめた後、翼竜は納得したようにスンと一息、鼻息を漏らす。
それを合図に、レオは翼竜の太く発達した首から順番に、油脂を塗付けはじめた。
空を飛ぶ翼竜の鱗には、それなりの保温と保湿の効果がある。
けれども人間の都合で無理をさせているからか、自前の鱗だけでは不足することがあった。
そこで厩竜舎では、薬草を混ぜた油脂をまだ鱗の柔らかい若い翼竜に塗ってやる。
翼竜は賢いので、油脂を塗ってもらうことが自分にとって役に立つことをすぐに理解するから、単純な手入れとしてだけでなく、親愛の情を深める効果もあった。
「さ。次は腹だぞ」
丁寧に油脂を塗っていくレオだが、翼竜の世話は元々の本職ではない。
少しは名の知れた冒険者として、〈浮遊城〉からヤドリギ退治に出撃していた一人だった。
そのレオが戦場を離れて、後方職である竜の世話係に収まっているのは、“感情”が原因だ。
そしてそれは、〈城壁〉や冒険者によるヤドリギ討伐が遅々として進まない理由の一つでもある。
「……はぁ」
撫で方が気に入ったのか犬のように鼻先を腹に擦りつけてくる翼竜をあやしながら、レオは溜息を吐いた。
心を、哀しみが支配している。
数ヶ月前にヤドリギ討伐に参戦したとき、魔物に傷をつけられた。以来、寝ても覚めても哀しみが晴れることはない。
同じような症状を抱えている戦士や冒険者は、数えきれないほどにいる。
レオの場合は哀しみだが、怒りや無力感、絶望など、襲われる感情は様々だ。
この“感情”に支配された者は、武器をもって戦場に立つことが困難になる。不可能ではないが、単純に足手まといなのだ。
治療法は、ない。
唯一、時間の経過だけが解決する可能性があるが、それも人によって個人差があるから、はっきりとしたことは言えなかった。
〈浮遊城〉では、レオのように剣を握れなくなった戦士や冒険者を後方職に置くことで食い扶持を与え続けて生活を保障しているが、その配慮を受ける自分の惨めさもまた、心を蝕んでいるのかもしれないと感じることがあった。
どうすればまた、戦場に立てるのだろうか。
翼竜の世話は、決して無意味な仕事ではない。
周天軌道とは無関係に移動することのできる〈浮遊城〉は交易の面で圧倒的に有利だが、別の世界に近づくことはできても、荷物を直接やり取りするのは飛空艇と翼竜だ。
いわば翼竜はこの〈浮遊城〉の命綱を握っているといっても過言ではないのだから、その世話が無駄であるはずがない。
餌をやるのも、白く固まった竜糞を砕いて掃除するのも、大切な仕事だ。
だが、虚しく、哀しい。
レオ・ブルカリンは冒険者であり、剣士だ。
生まれつき、魂が剣士の形をしている。少なくとも、自分ではそう信じていた。
それなのに、剣を握れない。いや、握ることはできても、戦うことができない。
今でも素振りと型稽古だけは欠かしたことはないが、戦場に立つことはおろか、魔物の姿を思い浮かべるだけで、心の中の哀しみが噴き出してきて、力が萎える。
これでは役立たずどころか、味方の被害を増やすだけだ。
何とかしなければならないと、自分でいろいろ試してみた。
けれども効果のある治療法はなく、却って荒療治で症状が篤くなるばかり。
全てを諦めて翼竜の世話を第二の天職として邁進できればいいのだが、そう割り切るには、レオは剣術莫迦に過ぎた。
「……哀しい」
哀しみに流す涙も涸れ果てて、今では嘆息の愁いが濃くなるばかり。
それでも生まれ持った才能か仕事だけはこなせるので、翼竜の世話はどんどん上手くなる。
今では厩竜舎でも一目置かれる存在になってしまっていた。
「レオ、おつかれさん。今日はもう上がっていいぞ」
舎のヒゲ面の先輩がそう言って小さな革袋を投げて寄越す。
「これは?」
「分からん。なんかめでたいことがあったとかで、オ・クランクランの狸親爺が気前よく賞与を配っているんだと」
珍しいこともあるものだ。
明日は世界が雨雲にぶつかるのかもしれない。
〈平穏伯〉オ・クランクランといえば、〈浮遊城〉の主にしてドケチとして知られている。その城主が銭を配るというのは、よほどのことだ。
「新しくできた食堂にでも行ってみたらどうだ?」
「食堂、ですか?」
そういえば第二食堂なるものができたらしいという話は耳にしていた。
今までの第一食堂は戦士や冒険者相手の商売だから「味よりも量」を信条に、莫迦げた量の飯と酒とを胃袋に詰め込むことだけを考えていたから、レオ向きではないと敬遠してしたのだ。
新しい開店するくらいだから、方針は違うのだろう。
ならば一度くらいは行ってみるべきかもしれない。
ちょうど、あぶく銭が手の中にあるのは、管理者様の思し召しというものだろう。
「分かりました。ちょっと行ってみます」
「お前さんもまぁいろいろあるんだろうけど、もう少し肩の力を抜いて、気楽にな」
先輩なりに気を遣ってくれているのだろうが、その優しささえも今のレオには、哀しい。
「ありがとうございます」
丁寧に礼を述べて、レオは第二食堂へと向かった。