キマイラ文庫

まものグルメ

蝉川 夏哉

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まものグルメ

蝉川 夏哉

一章 黒髪黒目の少女

第十四話 レオの復活(前編)

「レオ、お前はもう|本当に《・・・》大丈夫なのか?」


 飛空艇の船室で隣になったジュローが剣の手入れをしながら訝し気な表情を向けてくる。

 ジュローはレオと同じ“無尾人”だが、どこか馬っぽい顔をしている冒険者で、疑り深い性格の持ち主だ。

 本人曰く生まれた時からずっと|慎重な《・・・》性格だというが、冒険者仲間の間では、純朴さを失う遠征病に罹っているんじゃないかと専らの噂だった。


「大丈夫だよ」


 腕まくりをして力こぶを作って見せるが、それが何の証拠にもならないことはレオも承知している。

 ジュローは目を細めてレオの頭の天辺から足の爪先までを、殺人事件の検分でもするかのような視線でじっくりと眺めまわした。

 たっぷりと時間をかけて確認したあと、ジュローはスンと鼻を鳴らす。


「……遠征病がすっかり治った人間なんて、聞いたことがない」

「それならオレが一人目だな」


 軽く往なすように答えながら、レオにはジュローの心配と不安も痛いほどよく分かった。

 同じ遠征に加わる冒険者は、言わば背中を預け合っているようなものだ。突然、遠征病が再発して使い物にならなくなれば、本人だけでなく仲間まで危険に曝される。


 レオは掌を握って開いてを繰り返してみた。

 大丈夫だ。

 かつて心の中に居座っていたあれほど大きな哀しみの氷は、もう小指の爪の先ほども残っていない。


「ま、ジュローもそんなにカリカリするな。幸い、今日の〈歪み〉はまだそれほど大きいわけじゃない」


 同じ船室に詰め込まれた十数人の冒険者の中で一番年嵩の犬人、グルカヌン・ラーが面倒くさそうに髭を撫でながら窘める。


〈歪み〉

 ヤドリギに浸食された世界に生じる、謎の空間のことだ。

 はじめて発見されたのがどこかの城の地下牢だったから、その世界の言葉で地下牢を表す“ダンジョン”と呼ばれることも多い。


 ちなみにレオは〈歪み〉よりもダンジョンと呼ぶ方が好みだ。

 〈歪み〉の中にはヤドリギが繁茂し、魔物が跋扈している。

 戦士や冒険者が突入して魔物を相手している間にヤドリギを伐採しない限り、ダンジョンはヤドリギの成長に応じて際限なく広がっていく。


 一度〈歪み〉が広がってしまえばヤドリギを伐ってもそこは元に戻らないから、定期的に魔物を狩って伐採を続ける必要があるのだが、戦える人間の数は少ない。

 自力で〈歪み〉の拡大を押さえられる世界ならまだいいが、それができないところは〈城壁〉のような組織に頼るか、レオやジュローのような冒険者に金を払って駆除と伐採を依頼することになる。


 そのただでさえ少ない戦力も〈歪み〉の中では思うように戦えないことが多く、ひどい場合は遠征病を患って戦線を離脱することになってしまう。

 遠征病の治療は個人の問題ではなく、|多島界《アーリスフィ》全体にとっての問題なのだ。


 一見、レオを庇ってくれているように見える女傑、グルカヌン・ラーもバリバリと長い耳を掻く様子から見るに、完全に信頼してくれているわけではない。

 要するに、レオが治っていようがいまいが、〈歪み〉突入前の繊細な時期に船室全体をピリピリさせるな、ということだ。


「ま、お手並み拝見ってところだな」


 これ以上言っても仕方ないと判断したのか、ジュローは会話を切り上げようとする。

 レオがこれ見よがしに手を差し出すと、一瞬戸惑った表情を目元に浮かべた後で、この無尾人の冒険者は握手に応じた。


 本心はどうあれ、〈歪み〉に入る前に諍いを残しておくのは、素人のやることだ。そして素人はすぐにいなくなる。それが冒険者稼業のつらいところだ。




 目的地に最寄りの湖に飛空艇が着水すると、全てが慌ただしくなった。

 比較的大きな世界だが、〈歪み〉の出現を脅威に感じて別の世界へ逃げ出そうという人間はどこにでもいるものだ。


 この飛空艇は冒険者を乗せてきたもので脱出用のものではないと船員が説明しても理解しようとしない小金持ちが銀貨のたっぷり入った革袋をちらつかせ、職業意識に溢れた尊敬すべき船員に打ん殴られそうになる一幕があったが、レオたち冒険者は粛々と下船の準備に移る。


 地元の領主は肩の上に乗せている空洞におが屑ではなく脳味噌を詰め込んでいる種類の人間だったようで、湖の港には冒険者とその荷物を乗せるに足る馬車と鳥車が予め用意されていた。歓迎の食事と酒までもが準備されていたことには、気難しいグルカヌン・ラーでさえ讃嘆の声を上げたほどだ。

 レオたちを乗せた馬車は、長閑な田園風景の中を進む。


「ここが失陥すると」


 爪をヤスリで研ぎながら、グルカヌン・ラーは数学の公理でも説明するような口調で続けた。


「近隣の三つの世界で大規模な飢饉が発生する。それだけ、ここの世界の農業生産力は大きい」


 二本脚の鳥に牽かれる屋根なしの荷車で淡々と語る犬人の姿は、レオにはひどく場違いに見える。実際、グルカヌン・ラーおばさんはこの稼業をする前は教師をやっていたらしいという噂で、今でも中等数学を教育できる資格を保持しているそうだ。


「責任重大ってことですね」


 レオが相槌を打つと、グルカヌン・ラーは尻尾をばたりと一振りして応えた。

 ジュローは神経質にもまだ剣の手入れを続けていたが、他の冒険者は眠りこけるか、黙って俯くかしている。

 簡単な仕事だと聞かされていても、命の危険がないではない。自分の命がかかっている時に、別の世界の顔も知らない誰かが何か月後かに食べる|麺麭《パン》に想像力の翼を羽ばたかせる心の余裕のある人間は、社会では変わり者扱いされるだろう。



「……まんまといっぱい喰わされたな」


 鳥車から降りながら、ジュローが諦念の籠った恨み言を吐き捨てた。

 黒と紫と深緑を最も不快な割合で掻き混ぜたような色合いの空間が目の前に広がっている。〈歪み〉だ。

 事前の話では少し大きな屋敷ほどの大きさしかないと伝えられていた〈歪み〉は、邸宅どころかそれなりの規模の村ほどの大きさにまで育っている。


「規模にしちゃあ賞金額が大きいと思ったぜ」

「道理で酒まで用意してあるわけだ」

「あれっぽっちで末期の酒ってか」


 冒険者たちは口々に文句を言うが、ここで帰ろうとする者は一人もいない。前金として貰った四分一はとっくに使い切っているし、返す当てはないからだ。

 〈歪み〉対策を冒険者に依頼する領主や政府の全てが悪どいわけではないが、追い詰められればこういう手合いも増えてくる。


 レオの見るところ、ここの領主は冒険者たちを先遣隊と露払いにして魔物の数を減らしてから、自前の兵士を投入する腹積もりなのだろう。


「で、どうするね?」


 戦闘は他の冒険者に任せて、自分は楽にヤドリギの伐採をするつもりだったらしい斧手の梟人がグルカヌン・ラーの表情を伺うように尋ねた。


「どうもこうも、やることやって生きて帰るさ。騙した領主には全員分の報酬を払って貰わないといけないからね」


 ちげぇねぇ、という喚声が上がり、冒険者たちはゆっくりと〈歪み〉の中へ歩を進めていく。