まものグルメ
蝉川 夏哉
二章 【マモのグルメ】と迷宮攻略大作戦
第三話 ポプリと竜王国
「そう言えば」とヒューマーがほとんど空になった包みを畳みながら、仮説を披瀝する。
少しでも美味い弁当を手に入れようと手を尽くして得た今日のローストビーフサンドだが、それを売っている【マモのグルメ】という食堂には、不思議な噂があるそうだ。
曰く、そこの料理を食べれば、遠征病が治るとか。
「そんな莫迦な」と呆れた声を上げたのは遠征隊長だが、彼も笑いの発作が完全に収まっているところを見ると、それすらも傍証として説得力を持ってくる。
「いずれにせよ」
キーオは冒険者と斧手を合わせて十人ほどになる遠征隊をねめつけた。
「|私たち《・・・》のローストビーフサンドで、状況は好転したようですね」
口々に好き勝手なことを言っていた冒険者たちが、それを聞いて押し黙る。特にこの依頼の成否に責任を持つ遠征隊長は、複雑な表情を浮かべている。
危険度の把握が甘く、遠征隊全員を危地へ追い込んだ遠征隊長と、適切な指示を出して窮地を凌いだ上に、知らなかったとはいえ遠征病の回復手段を全員に提供したキーオ・カンピュール。
どちらが今回の遠征で功績が大きいかは、誰の目にも明らかだ。
自嘲的な気分がむくむくと自分の中で大きくなることに、キーオは遠征病とは関係なしに口の端だけで笑みを浮かべた。それを何かしらの自信の表れと取った冒険者もいるかもしれない。それすらもまた、上に立つ者に求められる余裕の演出だ。
キーオは指先に付いた|麺麭《パン》の屑を見る。
父と二人の兄に、不満はない。むしろ感謝の念が強い。好きにさせて貰っているし、老後に至るまでの働き口の面倒も見てくれるはずだ。
けれども、常に満たされないものが胸の奥底に在るのを、確かに感じていた。
それを一言で説明するのは難しい。例えば眼前に広がるこの砂漠のようなものだ。いくら水を注いでも、砂は貪欲にそれを飲み干してしまう。そのような、野心とでも言うべきものが、キーオの胸の中には確かに息づいていた。
「ところで、撤退の手順だが……」
主導権を取り返そうと遠征隊長は努めて平静を装った声で話しはじめた。
だが、それをヒューマーはパタリという尻尾の一振りで遮る。
キーオは冒険者たちを見回し、一拍置いて注目を十分に引き付けてから、口を開いた。
「今こそ、この〈歪み〉の攻略を目指すべきだと思う」
***
建物の中だというのに、肌寒い。
磨き上げられた黒輝石の床に膝をつきながら、ポプリ・クル・スタンラード・エディル・クレイアは自分の惨めさを想った。
巨大な世界を治める列強の中でも一際存在感を放つ、竜王国。
その中心部たる竜都の竜王宮の奥、〈黒牙殿〉の謁見の間に、彼女は跪いている。
人よりも遥かに大きな体格を有する竜族に合わせて建てられた殿閣は人の身には巨大に過ぎ、柱の一本でさえ、屹立するだけで威圧しているかのようだ。高過ぎる天井を吹き抜ける轟轟たる風の音は竜の咆哮に似て、聞く者の心胆を寒からしめる。
惨めだ。
殿閣の巨大さに対して、そこに蹲るようにして在るポプリの小ささは、あまりに矮小だった。
〈城壁〉の代表の一人であるポプリがこのような態度に甘んじなければならないのは、竜王国の支援がなければ〈城壁〉の活動が立ち行かないからである。
列強は危機に対して鈍感だ。
既にいくつもの世界が、ヤドリギ災害によって失陥しているという状況にあってなお、明確に〈城壁〉に手を貸しているのは竜王国しかない。
その現状にポプリは忸怩たるものを感じているが、同時に諦念もある。
この|多島界《リースフィア》のそれぞれの世界は独立性が高い。他の世界がどうなろうと、気にしない君主や代表がほとんどと言っていい。むしろ竜王国が話を聞いてくれていることが、奇跡なのだ。そう考えて、前向きにやっていくしかない、というのがポプリの偽らざる気持ちだった。
それにしても、今日はいつもより待たされる時間が長い。
もちろん、金策に来た身で贅沢をいうつもりはないが、ポプリも元を辿れば亡国の王族であり、軽んじられることには慣れようと思ってもなかなか慣れるものではなかった。
竜族の高慢さは今にはじまったことではないが、それでも複雑な想いを抱かざるを得ない瞬間はある。
ポプリは、今の〈城壁〉の財務状況を思い出すことで、怒りの感情を飲み込んだ。
赤字という言葉で表すことのできる概念の上限に挑戦するかのような帳簿は財政担当者からは呪禁の如くに扱われ、改善の望みは埃の一粒ほどもない。
支援を底なしに飲み込み続けて領土奪還の希望もない戦いは、戦士や冒険者だけでなく、内勤の人間の心をも疲弊させ続けている。
ポプリは、小さく身震いした。
もし今日の交渉が上手くいかなければ、継続しているいくつかの遠征計画を縮小する必要がある。それはつまり、ヤドリギと〈歪み〉の拡大を意味していた。つまり、それは土地を永遠に失うことであり、そこに住む人々にとっては、故郷の喪失を意味する。
何とか、竜王国の機嫌を取らなければならない。
彼らが今、〈城壁〉を支援しているのは、大国としての道義的責任ではなく、単なる暇つぶしに過ぎないことをポプリは理解していた。そして、竜たちがこの代り映えのしない遊戯に飽きつつあることも。
「国務尚書閣下、御入来!」
意識を引き戻したのは、衛兵が謁見相手の到着を告げる声だった。相手にその意図はないのだろうが、衛兵の声音にすら傲然とした見下しの色を感じ取り、ポプリは自嘲に口元を歪める。
辞を低くしていても、竜族の足音はよく聞こえた。国務尚書〈鋭鱗の緑縞〉伯だ。
「おぉ、エディル・クレイア卿ではないか!」
相変わらず大きな声だと思いながら、ポプリは違和感を覚えた。
いつもなら多分に含まれる見下しや嘲りの色が、声から感じられないのだ。むしろ、讃嘆に近いものがある、という気がする。
意外なことに、国務尚書はポプリに歩み寄ってきた。それどころか膝までつき、手を添えてポプリを立つように促しまでする。
呆気に取られるポプリに、国務尚書は豪快な笑みを浮かべた。
「聞いたぞ。〈歪み〉を攻略する手段ができたそうじゃないか」
「……は?」
ポプリは竜王国の老練な大政治家の問いに、ひどく間抜けな声で応えることになってしまったのであった。