まものグルメ
蝉川 夏哉
一章 黒髪黒目の少女
第五話 奇跡の【下拵え】
「いや、この木箱には食材など入っているはずがない……」
ゼレクスは首を振った。
兵士たちが腰かけている木箱は、|戦利品《・・・》、つまりは、|魔物《モンスター》の死骸が詰まっている。研究用だ。効率よく斬るにはどうすればいいか。炎に弱いなら燃やした方がいいか。そういう戦術研究用に持ち帰って、〈城壁〉の研究室でバラバラにして、最終的には捨てる。そんなものが、食べられるはずがない。
だが、マモの表情はあっけらかんとしており、真っ直ぐ木箱を見つめている。
「でも、入ってますよ」
当たり前のことを指摘するような口調に、ゼレクスとルシェオス、ボルモントは顔を見合わせた。
|魔物《モンスター》の死骸を、食べる?
ありえない。
〈歪み〉の魔物は、醜怪で嫌悪感を催す外見だけでなく、臭く、毒を持つ。
そして何より〈歪み〉の影響を受けている。
かつて餓えに耐えかねた人々が|魔物《モンスター》を調理して食べようとしたことがあったが、その試みは|悉《ことごと》く失敗したという話だ。不味くて食べられたものではないし、毒と〈歪み〉で、最悪の場合死に至る。
「無理だ、マモ嬢。魔物の死骸は切り刻んで、最終的に捨てるか焼くかするんだ」
「そうなんですか?」
「既に多くの人が試みた。無理なんだよ」
ゼレクスが力なく首を振ると、マモがゆっくりと歩き出した。
誰も腰かけていない木箱の蓋に手をかけると、そっと中身を取り出す。市場で今日の夕餉に使う食材を選んでいるかのような所作だ。
「マモ嬢!」
周囲の兵士たちはマモのすることに気付かず、暢気に塩ヤキソバを頬張っている。
木箱が開き、中から触手の束が顔を覗かせる。濃緑を基調として紫の斑点が散りばめられた、ウシトリクサの触手だ。
禍々しい色の示す通り、猛毒がある。
〈歪み〉が進むと|脂瘤牛《コブウシ》でも丸呑みにしてしまうような、獰猛な魔物だ。
訓練された兵士が三人がかりで退治するような相手だから、死んでいるといっても近付きたがるもの好きはいない。
それをマモは手に取ると、目を閉じ、静かに祈りの言葉を唱えた。
「食の神よ、産土の神よ、この|粮《かて》をあるべき姿へ清め給え……【下拵え】!」
次の瞬間、【|恩恵《ギフト》】の発動を示す|眩《まばゆ》く、しかし温かな光が辺りを包み込む。
「マモ嬢!!」
光が収まったとき、その場には黒髪黒目の少女が立ち尽くしていた。
その手には、瑞々しい野菜を抱えている。
「マモ、嬢……?」
いやまさか。そんな莫迦なことがあるか?
見る限り、触手|だった《・・・》ものは、ただの野菜に変じている、ように見える。
「よし、いい感じ」
マモが、抱えていた野菜を天に掲げた。
その姿が、何故かゼレクスには美しく神々しいもののように見える。
「そんな莫迦なことがあるか? どう思う、ボルモント」
「様々な【浄化】系の【恩恵】を魔物の死骸に使った例はあると思いますが……食材に変じた、という話は寡聞にして聞いたことがありません」
【浄化】は〈歪み〉の魔物によって受けた傷を癒すために使うものだ。
【治癒】は肉体的な傷を治療するが、魔物の攻撃で歪みの影響を強く受けてしまった部分は、腕や足ごと切除するか、【浄化】を受けるしかない。腹に〈歪み〉の傷を受け、近くに【浄化】の使い手がいなければ、その負傷者はには慈悲の一撃をしてやることになる。
そんなわけで、【浄化】系の【恩恵】は研究が比較的進んでいる分野になる。それでも、【恩恵】を使って魔物の死骸を食材にする、というのは前代未聞だ。
「【下拵え】!」
また光が瞬いた。マモ嬢が次に浄化したのは、オニオカダコモドキだ。
八本の触手を持つ強力な魔物で、地面を素早く這い回り、吸盤のついた触手で絡みついてくる。
そのオニオカダコモドキも、浄化されたことで〈歪み〉の邪悪さが消え、普通の水産物になったように見えた。
「じゃあ、今から調理します」
「ちょっと待て!」
食材となった魔物を抱えて調理に戻ろうとするマモの腕を、ゼレクスは掴んで制止した。
「それは死骸だ。食材ではない!」
「でも、食べられますよ」
悪びれる様子の全くないマモの表情に、ゼレクスはある考えが過る。
「まさか……今までにも、食べたことが、ある、のか?」
ゼレクスの問い掛けに、マモは悪戯っぽくチロリと舌先を出すことで応えた。
黒目黒髪の少女は、鉄板の奥の台に食材を乗せ、下拵えをはじめる。
あれだけ恐ろしかった魔物が、マモの包丁捌きでぶつ切りにされていくのを、ゼレクスは何とも言えずに鼻を掻きながら見ていることしかできない。
丁度良い大きさに切り分けられたタコが鉄板の上でじうじうと美味そうな音をたてはじめた。
そう、美味そうな音だ。
火が通るにつれて、食欲をそそる香りも鼻腔をくすぐって来る。
だが、魔物だ。
食べられるはずがない。食べられるはずがないのに。
たっぷりの|牛酪《バター》の上で、塩と香辛料、にんにく、それに何か黒くてとろりとした調味料によって味付けされていくタコ。
「若……」
不安げなボルモントに、ゼレクスはかける言葉を持たない。
食べるのか、タコを。いや、魔物の死骸を。だが、あれは浄化されたもので……
「さ、蛸のバター醤油炒め、いっしょあがり!」
美味そうだ。はっきり言ってしまえば、とても食べたい。
けれども、食べるわけにはいかない。
状況を察した兵士や冒険者たちも、ゼレクスの出方を窺って、食べに行こうとはしない。
当たり前だ。あれは〈歪み〉の魔物の……
「いただこう」
マモの前に歩み出たのは、〈壁穿ち〉のルシェオスだった。
塩ヤキソバの盛られていた木皿を無造作に突き出す。
「まいどあり!」
器用に鉄板から木皿にタコをよそうマモの動きから、ゼレクスは視線を逸らすことができない。
止めるべきだ。ルシェオスが食べるのを、止めなければならない。理性はずっとそう言っている。
しかし、大脳に反して、胃袋は「あれが食べたい」と訴え続けている。
ルシェオスが|筷子《ハシ》を使って、タコを口に運んだ。
瞑目し、咀嚼する。
その口の動きを、顎の動きを、ゼレクスには見ていることしかできない。
「これは……」
口を開いたルシェオスの言葉を、ゼレクスだけでなく、ボルモントも、周囲の全ての人々が待ち構えている。
「これは、今まで食べたタコの中で、いちばん美味いですな」
それを聞いて、今まで事態を注視していた兵士や冒険者、荷運びたちが皿を手に手に、鉄板に殺到した。まだ警戒して近寄らない者と、半々くらいだろうか。
他人がものを食べているのを見ると、自分も食べたくなるものだ。美味そうなものであれば、尚更のこと。
「ボルモント?」
ゼレクス一番の忠臣であるボルモントが、いそいそとタコのバターショーユ炒めの列に並ぼうとしている。
「いえ、これは毒見です。後は研究意欲、ですな。後学の為には自分の身を犠牲にして実験することも必要でしょう」
したり顔で言い訳して見せるボルモントに、ゼレクスは苦笑いをすることしかできなかった。
まだ故郷のアナーシスが健在だったころ、下海から漁師たちによって運び上げられてきた水産物をボルモントが好んでいたのを思い出したのだ。
口の中に、かつて味わったタコの独特の噛み応えと味とがよみがえる。
「……私の分も取って来てくれ」
「しかし、若」
「これだけの人数が食べているのだ。毒があっても即効性ではあるまい」
「……はい!」
〈壁穿ち〉のゼレクスが、美味そうにタコのお代わりを食べているのが見えた。
あの武骨で武人という言葉が服を着て歩いているような男が、あんな表情もするのだと、不思議な気持ちになる。
「……ひょっとすると、マモ嬢を見つけてきたことが、現状にとっての〈壁穿ち〉なのかもしれんな」