アオハルクエスト
ヤマモト ユウスケ
一章
転移する学園(2)
聖十郎が目を覚ました時、顔面が柔らかくて、暖かくて、そして巨大なものに埋まっていた。
(布……?)
だと思う。複数の布の内側に柔らかいものがあって、こう、非常に魅力的な感触である。顔面を引き抜こうとして、両手を布に突くが、柔らかく沈み込んでしまい、力が籠められない。
「ん、や……」
くぐもった甘い声が聞こえた。聞きなじみのある、如月院・F・真理愛の声に違いなかった。
思い出す。地震だ。地震があった。そして、意識を失っていたのだ。
聖十郎は慌てて、さらに力を込めて柔らかくて巨大なものに両手を突っ張り、すぽんと顔面を引き抜いた。
「や……。うう、う……?」
さっとあたりを見渡す。晴天学園の大講堂に違いない。演説していた場所だ。マイクやらパイプ椅子やら資料やらが散乱しているが、ほかには影響なし。照明等の大型機材が落下していないのは僥倖か。
(やけに天井が遠く見えるな。頭を打ったか、気絶していた影響か……?)
ともあれ、もっと状況を把握しなければ。聖十郎は自分が顔を埋めていた目を向けた。
おっぱいだった。セーラー服の。しかもデカい。
「ふ、不祥事……! 平岩あたりが仕掛けたハニトラか……!?」
いや、それにしてもデカすぎる。片乳だけでも、明らかに聖十郎の顔面よりデカい。おそるおそる持ち主の顔を確認すると、|見覚えのある知らない顔《・・・・・・・・・・・》があった。
ミルクチョコレート色の肌に、艶やかな銀色の長髪。薄紅色の唇に小ぶりですっと通った鼻梁、瞳を閉じていてもわかる美少女である。あと尖った耳。
……尖った耳?
「な、え……なんだ……?」
「うう……?」
ぱちり、と美少女のまぶたが開いて、聖十郎を見た。そこで、気づく。
「真理愛……、か?」
「せいじゅうろう……くん? あれ、ええと……」
真理愛だと確信する。姿かたちは変わっているが、このファンタジックな美少女は真理愛だ。
姿の変わった聖十郎の幼馴染が、床に手をついて上体を起こす。腹の上に乗っていた聖十郎は膝のあたりまで転げ落ちた。
(いや、いやいやいや! おかしいだろう……! なぜ転げ落ちる!?)
聖十郎の身長は一七〇センチメートル。真理愛は一六五センチメートルだったはずだ。なのに、どうしてこんな巨人に……?
「真理愛、なんかデカくなってないか!? 大丈夫か!?」
真理愛は眉をひそめて聖十郎を見て、目を丸くして、目を擦って、もう一度聖十郎を見た。
「せ、聖十郎君……? 聖十郎君こそ、小さくなってないですか……!?」
「は? 小さく? なにを言っているんだ?」
わたわたと手を動かして真理愛がポケットから手鏡を取り出し、聖十郎に見せた。
そこに映っていたのは、蝶々の羽を生やし、ちょっとぬいぐるみっぽい造形になった自分自身だった。ぺたぺたと頬を触ってみる。柔らかい。鏡の中のデフォルメ聖十郎も、頬をぺたぺたと触っている。
……頬をつねってみる。痛い。鏡の中の自分も頬をつねって、顔を顰めている。
「な……なんだこれ!? いったい何がどうなって――!」
詰襟の学生服も、ぬいぐるみサイズになっている。パタパタと体を触って確認していると、ポケットから生徒手帳が零れ落ちた。馬鹿馬鹿しいことに、学生証すらもミニサイズに変化している。
「……む?」
落ちた拍子に、生徒手帳が開いた。表紙の裏に貼り付けてある顔写真が、元の聖十郎のものではなく、今の聖十郎のものに変化していると気づく。
拾って中身を確認する。学年は三年生、所属は普通科特進コース、氏名は黒揚羽聖十郎、年齢は十八歳……それから、見覚えのない項目が追加されている。
「種族、ダークフェアリー……? なんだこれは。真理愛、君の手帳はどうなっている?」
真理愛も生徒手帳を取り出し、己の項目を確認した。
「私はダークエルフ……みたいです。これは……もしかして、他のみんなも?」
はっとして、公会堂の座席に目を遣る。ざわざわと大講堂に喧騒が広がり始めていた。わあ、とか、きゃあ、と言った声も聞こえ始めた。
(生徒諸君も、姿が……! 目を覚まして、異常に気付き始めたか!)
大講堂には、見たことのない生き物たちがひしめいる。大きい者、小さい者、動物の耳を生やした者、もっと異形の姿に変化した者……それぞれが、お互いの姿を見て叫んでいる。
まずい、と聖十郎は思った。
「お、落ち着け! 諸君、落ち着きたまえ!」
声を必死に張り上げる。しかし、小さくなった聖十郎の声は、誰にも届かない。誰かが大講堂の扉を開けて、外に飛び出していった。
(まずい、まずい、まずい――!)
どういう理屈で、いったい何がなんだかわからないが、ともあれ。
混乱が、大講堂の外に拡散してしまうのは、まずい。
「くそっ、真理愛! 放送機材は生きているか!? なんとかして、全員に落ち着くよう言わないと……!」
「かっ、確認します!」
真理愛が立ち上がって、聖十郎は膝からも転げ落ちた。慌てて、真理愛が拾い上げて、体の前で持った。
「あ、聖十郎君のほっぺたやわらかい……」
「いいからマイク!」
叫ぶ聖十郎に、横合いから冷ややかな声がかけられた。
「あかん。マイクは死んどる。照明が点いてんのは、地震でブレーカー落ちたあと、非常用電源が働いて勝手に点いたんちゃうかな。マイクは一回接続切れたから、再接続せな繋がらへん。無線式の悪いとこやねぇ」
声の主は、赤毛の女子生徒だった。身長は一三〇センチほどだろうか。耳たぶがやけに長く、顎のあたりまで伸びている。……あと、胸と尻がデカい。
しかし、鼻のあたりにそばかすがあって、唇の端がニヒルに吊り上がっている。変化していても、その顔つきには見覚えがあった。
「……平岩監査委員長、か?」
「大正解。ウチは可愛い可愛いお前の宿敵、|平岩《ひらいわ》|金雄《かねお》ちゃんや。種族はレプラコーンらしいで」
ひらひらと生徒手帳を振って、平岩監査委員長は笑った。
聖十郎は脳内で相手のプロフィールを想起し、姿の変化を把握する。
(平岩金雄。三年、特進科の|女子《・・》生徒。女子っぽくない名前は名門平岩家の伝統。学園政治家。……監査委員の仕事はそつなく、どころか優秀にこなす。意外と人情派で涙もろい。ただし、反エリートのポピュリスト……だったはずだ)
つまり、自称通り、聖十郎の宿敵である。
「ほんで、これはなんや。どういうこっちゃねん。なにが起こってるんか、説明責任を果たしてもらおか、黒揚羽生徒会長」
「……は? 説明できるわけがないだろう、こんな事態。現状、これは私が見ている夢という線が一番濃厚だが」
「ほっぺたつねったろか」
「もうつねったとも。もちもちだった」
「へえ。ほな、ちょっと失礼」
平岩が聖十郎の頬に手を伸ばした。真理愛が聖十郎を抱いたまま一歩下がって、その手を避けた。
「如月院はんのケチ」
「駄目ですよ、平岩監査委員長。このほっぺたは私のものです」
「私のほっぺたは私のものだが?」
「そないな怖い顔で笑うなや、如月院はん。ちびりそうや。……ま、ともかくな? アンタが説明できるかどうかは関係あらへんねん、黒揚羽生徒会長」
平岩が唇の端を吊り上げて、獰猛に微笑んだ。
「いま重要なんは、異常事態が進行中で、アンタが生徒会長やっちゅう、純然たる現状の事実や。責任を果たせへんなら不信任、秋を待たずに引退やね。そしたら、今度こそウチが生徒会長になれるかもしれへんなぁ」
「呆れた……。まだ諦めてなかったのか。貴様も三年生なんだから、いま交代しても秋までの任期だぞ。ていうか、こんな事態でも政争か、貴様は」
「こんな事態やからこそ、やろがい。火事場泥棒は政争の基本やで?」
「付き合っていられん」
「ほんなら、どうするん。どうやってこの事態を収拾つける気ィや?」
問われて、聖十郎は考える。すぐに答えが出た。
「真理愛、本校舎の放送センターへ向かえ。そこまで行けば、学園全体に放送できる。非常用電源が働いているなら、問題なく使えるはずだ。そこから放送を行い、事態の収拾を図る! では失礼する、平岩監査委員長」
真理愛がうなずいて、平岩の横を抜け、舞台袖まで駆けた。
見れば、変身した生徒たちは押し合いへし合いしながら、大講堂の扉に殺到している。逃げているのだ。周囲にいる、|異形の者《学友》達から。
真理愛の足はそちらの扉ではなく、舞台裏に向かった。
「裏口から出ます! ……え?」
……資材搬入用の扉から飛び出したところに、|そいつ《・・・》はいた。
一言でいえば、背中に棘の生えた狼か。しかし、あまりにも無機質で、現実味がない外見をしている。
のっぺりとしたテクスチャーの黒い外皮は、プラスチックの模型のよう。瞳はまっくろで生気がない。
だが、全身から生える棘と、口元から覗く鋭い牙は、本物の殺意を伴っていて、しかも――すでに、誰かの赤い血を、牙から垂らしていた。
「……な、え……なんですか……?」
異常な光景に、真理愛の足が止まった。いかん、と聖十郎が焦る。
――棘だらけの狼と、目があった。
「真理愛、駄目だ! 足を止めるな!」
異形の怪物が、真理愛と聖十郎に襲い掛かった。