アオハルクエスト
ヤマモト ユウスケ
一章
青春白球大暴投(2)
「グラウンドを、荒らさないでください……!」
トンボを振り回して、桐野は吠えた。
オオカミめがけて振り回すが、当たらない。
ビッグフットに種族変異した桐野の膂力は、すでに背の低い十六歳のそれではない。トンボだって軽々と振り回せる。意味の分からない状況ではあるが、とはいえ、優れた肉体を持ったことによる高揚を、少しばかり感じていた。
それは、野球選手としての桐野が持ち得なかったものだからだ。
――桐野にとって、野球とは何か。
野球。十六歳の桐野にとって、人生そのものと言っていいものだ。
物心ついたころから、野球が好きだった。熱狂的な巨人ファンである父親の影響だ。中学三年生までは女子ソフトボールで桐野自身もプレイしていたが、成長の中で二つの事実に気づいた。
一つは、自分の肉体が全くスポーツ向きではないこと。同学年の女子の中でひときわ小さな体躯は、明確にハンデとして立ちはだかった。決して運動音痴ではなかったが、それゆえにこそ、生まれ持った……そしてそう簡単には覆せない|性能《・・》の差を強く実感してしまった。
二つ目は、自分で野球をするより、指示したり、分析したり、どんな練習が効率的か考えるほうが楽しい、ということだ。
(データ通りの結果が出た時の“正解”の快感も、選手たちがデータを上回る挙動をしたときの感動も、どちらも得難いものでした……!)
高校からは野球部のマネージャーになった。
晴天学園高等部に、甲子園出場歴はない。生徒総数の多さに比例して、当然、野球を好む生徒の数も多いのだが……校風が自由すぎるせいで、硬式野球部員数はそう多くない。
硬式、軟式、ガチ練習は嫌だけど野球は好きな生徒が集まる草野球サークル、野球観戦をするだけの同好会など、多々ある野球系の部に生徒が分散してしまっているからだ。本気の硬式野球部の部員数は、普通の高校と同じか、少し少ないくらいだろう。
けれど、だからこそ、桐野にとってはやりがいのあるマネージャー業だった。甲子園に連れて行ってもらう、なんてことは考えていない。
桐野が連れて行くのだ。
自分のデータを生かし、晴天学園の野球部を甲子園に連れて行き……優勝させる。
それが桐野の目標で……そして、決して無理な夢ではないはずだった。
だが。
「私の、野球を……! 青春を! 返してください!」
返事代わりか、黒くてのっぺりした狼が牙を剥いて唸った。
異世界? 異種族? なんですかそれは。野球はどうなるっていうんですか。
狼は答えない。唸るだけだ。
ビッグフット化で桐野の膂力は大幅に向上していたが、狼は素早い。トンボで牽制することはできても、当たらない。
グラウンドには無数の足跡が、鋭い爪によって生まれた溝が残されている。
グラウンドを荒らされたくなくて、怒りと勢いに任せて出てきてしまったが、今更になって恐怖が背中をぞわぞわと登り始めた。
「甲子園に、連れて行って、勝つんです……!」
心を奮い立たせるように、言葉を吐き出す。
桐野の夢が危機に瀕するのは、これが一度目ではない。
(昨年の冬にも、大変なことがありました……!)
同じです、だから乗り越えられるはずです――と強く信じる。
桐野は第三グラウンドの夜間照明を視界の端に捉えた。グラウンド用の巨大なLED投光器だ。高校なのでナイターはないが、冬季の放課後練習には必須の設備。
それは去年、新しくなったばかりのものだった。
●
投光器が壊れたのは、去年の冬。
桐野のかき集めたデータが監督に認められ、徐々に練習内容にも口出しできるようになったころだった。
放課後にはもう暗くなる季節だ。投光器がないと練習できない。練習時間の大幅な減少に、桐野はうめいた。甲子園に行く練習プランが、大幅にズレてしまう。とはいえ、グラウンドに備え付けられた設備だ。一介のマネージャーにどうこうできるものではない。
だから、桐野は生徒会室へ向かった。追加予算の直談判のためである。
再選を果たした暴君、黒揚羽聖十郎はふんぞり返って桐野を眺め、言った。
『うちの野球部を甲子園に連れて行くなどとほざく、イキのいい新入生がいるとは聞いていたが、君か。ふぅむ……。率直に聞くが――出来るのかね? 晴天学園の硬式野球部は、さして強くないエンジョイウェーイな部活だと認識しているが』
データ上は可能です、と答えた。ただ、そのためには練習時間が必要で、つまり投光器は必須の設備です、と。
『だから、何とか予算を都合してほしい、と? 残念だがね、秋の総会で予算決議は終わっている。それを今から覆すのは不可能というものだよ。予備費もあるが、そう簡単には動かせん。グラウンドに直置きするタイプの投光器じゃダメかね』
ダメではなかったが、理想とは言いがたい。
グラウンド全体を明るく照らせなければ、広く使う練習は難しくなってしまう。
桐野は言った。「甲子園出場は、もう射程圏内にあります」と。そのためにも設備投資をお願いします、と。
ぴっちりとした七三分けの生徒会長は、正面から桐野の目をじっと見つめた。
『|金《カネ》がいる、か。――時に桐野君。金とはなんだと思う?』
金とは何か? つまり、金銭とは……いや、お金って、お金では?
答えあぐねていると、生徒会長はゆっくりと言葉を紡いだ。
『金とは力だ。権力であり、知力であり、暴力であり……しかし、本質的には、そのどれとも違う。結局のところ、金は代替品でしかない。何か、他の|価値あるもの《・・・・・・》と交換するために存在するトークンに過ぎない。わかるかね?』
わから……なくは、ない。
『ならば、金そのものの価値とはなんだろうな。知っているかね? 俗説だが、一円玉を一枚製造するためかかる原価は約三円だそうだ。トークンに過ぎず、製造コストも見合わない金銭そのものには、どのような価値がある?』
桐野は正直に答えた。わかりません。
生徒会長は笑った。
『|信用《・・》だ。日本円が信用できるから、他の価値あるもの、例えば権力や知力や暴力や投光器などと交換できる。翻って、貨幣とはつまるところ信用されなければ貨幣足りえない。交換しうる価値があるのだと、誰もが信じられるものでなければならない。さて、ここまで語った上で問うが――』
生徒会長は、五指をぴしりとそろえた右の手のひらで、桐野を示した。
『――桐野君。設備投資に対して、君自身が示せる価値とは何かね? そして、君自身は、どれくらい信用できるのかね? 我々はそこを知らねばならない。予備費を動かしてほしいというならば、君自身の|価値《・・》と|信用《・・》を示したまえ』
十六歳の桐野に示せる価値……。
桐野は問うた。つまり、脱げばいいってことですか?
『はっはっは、やめたまえ。如月院副会長はこう見えて武術の心得もあるからな。権力を笠に着てうら若き女子生徒に手を出したら、私はボコボコにされて校門に吊るされることになる』
額に汗を浮かべた生徒会長の後ろで、アルカイックスマイルを浮かべた副会長が『吊るす程度じゃ済みませんよ、ええ』と恐ろしいセリフを吐いた。
『言い換えよう。桐野君、君と、君が導く野球部に、予備費を支出するに値する価値はあるか? 君たちは何が出来る? それを私にどう示す? 今のところ、信用に値する実績も情報もないが――どうかね? データ、得意なのだろう?』
桐野ははっと気づいて、部室まで走って戻り、使い込んだタブレットを持って、再び生徒会室に赴いた。
とにかく、自分なりに、一所懸命に伝えた。どうして投光器が必要なのか、投光器の有無によって練習がどれくらい変化し、甲子園出場にどう影響するのか――。
生徒会長も副会長も、桐野の拙いプレゼンに、根気よく付き合ってくれた。
『君たちの価値は、十分に伝わった。青春にかける情熱も、だ。いいじゃないか! 素晴らしい! まさにアオハルというやつだ! その情熱は信用に足る。……だが、最後に一つ、いいかね?』
生徒会長は、指を立てて言った。
『投資されたいならば“野球部を甲子園に連れて行くから予備費を都合してください”では、インパクトが足りん。我々を納得させるには不十分だ』
ダメだったか――、と肝を冷やした桐野に、生徒会長はにやりと笑った。
『君が掲げるべき言葉は “甲子園を制覇するから金を出せ”だ。さあ復唱したまえ。“甲子園を制覇するから金を出せ”、さん、はい――もっと大きな声で! そう、そうだ! 聞いたか、如月院副会長! このガキ、偉そうな口を叩くぞ!』
自分で言わせたくせに、無茶苦茶な人ですね! と普通にムカついた。同時に、この人がこれまでに三度失脚していることも、それなのに四度目の生徒会長に選ばれたことも、納得できた。
『さて、一年生の偉そうな宣言も聞いたことだし、桐野君、あとはすべて我々に任せて帰りたまえ。如月院副会長、これから監査委員会を訪ねる。手伝ってくれ、平岩金雄の首を縦に振らせなければならん』
生徒会長の黒揚羽聖十郎は、恐れないのだ。己が前に進むことも、他人を前に進ませることも。
――結論を言うと、その週末に業者が入って、照明が修理された。
●
だから、桐野は吠えた。万感の思いを込めて。
「グラウンドは……! 大事に使いなさい……!!」