アオハルクエスト
ヤマモト ユウスケ
一章
転移する学園(3)
真理愛は、ぎゅっと聖十郎を抱きしめて目をつむった。
だが、いつまでたっても衝撃が来ない。痛みもない。
おそるおそる目を開けると、飛び上がった黒棘の狼が、空中で何かとぶつかり、牙も爪も、真理愛たちには届かなかったのだ。
その鼻先に、紫色の光陣が浮かんでいる。月桂樹の円で囲まれた毛筆体の『晴天』――晴天学園の校章が、黒棘の狼を空中で押し留めているらしかった。
「真理愛。手の、それは……なんだ?」
「……あ」
聖十郎に言われて、気づく。真理愛の両手に、空中に浮かんでいるものと同じ、光り輝く校章の魔法陣が浮かんでいる。
直感する。使い方が、わかる。料理で箸を使うのに似た感覚、とでも言うのだろうか。これの名前も、わかった。
「こ、これ……【黒魔法/テレキネシス】です……!」
「なに?」
「特殊な能力です! ダークエルフの! あるんです、そういう力が! ――たぶん、聖十郎君にも、他のみんなにも!」
聖十郎は「せい!」と叫んで両手を突き出した。特に何も出なかった。
「……ふむ。あー、真理愛? 悪いが、その狼、どこか遠くへやれるか?」
「やってみます……!」
力を込めて、右手を払いのけるように動かす。校章の印が輝いて、黒棘の狼を吹き飛ばした。轟音と共に、狼がブロック塀に激突し、動かなくなった。
「凄い力だ。真理愛、よくわからんが、でかした!」
「放送室まで、私が聖十郎君を守ります!」
再び駆け出す。
●
聖十郎は、抱えられたまま学園を見た。
学園の敷地内は、ひどい有様だった。黒棘の狼の群れが、そこかしこで生徒を追い回していたり、かと思えば――。
「うらぁ!」
――と、二メートル半ほどの身長を持つ、虎顔の獣人に殴り倒されていたり。
皆、事態がよくわからないなりに、適応し始めていた。
見覚えのある顔の、ただし尖った耳を持つ教職員が叫んでいる。
「制服を着ているのは味方! 制服を着ているのは味方です! スーツとジャージも味方です!」
事態を収拾しようとしているが、現在進行形で襲われて、逃げ回っているのだ。そう簡単に指示に従うわけもない。
混乱を極める大講堂付近は、数メートル進むことすら困難だった。聖十郎はふと思いついて、真理愛の顔を見上げた。
「真理愛。さっきの魔法で、自分を浮かすことは出来ないか?」
「……や、やってみます!」
真理愛が校章陣を足元に展開し、ふわり、と浮かび上がる。案外、すんなりと空を飛んで、そして――それが、見えた。
「えっ、嘘……」
「……我々の肉体が変化したのであれば、それ以外が変化していても、おかしな話ではない……というよりも、どんなおかしな話でもあり得る、というべきか」
校舎よりも高く飛んだことで、学園の外側が見えた。敷地をぐるりと取り囲む塀の向こうに、背の高い木々が生い茂っているのが見える。遠くには、雪冠をかぶった山も。大自然そのものが、広がっている。
日本の光景では、ない。
「つまりこれは異世界に転移して、異種族に変異した、という、アニメみたいな展開なのかもしれん。ただし――晴天学園丸ごと、全校生徒一万人が、だがね」
「そんな、ことって……」
しばし、聖十郎と真理愛は、呆然と景色を眺めるしかなかった。嘘みたいな本当の話。現実とは思えない光景。
眼下では騒動が広がり続けている。なんとか収めなければならないが、しかし、こんな状況では予備電源もいつまで保つか。
(騒動を収めたとして、どうなる?)
聖十郎は思う。
こんな状況で、何ができる? 生徒会長に、十億円を動かす程度の権力者に、何ができる?
いや、そもそも人間にどうにか出来る問題なのか? 神とか悪魔とか、そういう次元の話じゃないのか。
ネガティブな思考に捕らわれたまま、視線を彷徨わせ――聖十郎は、見た。
いくつもある校舎のうち一つ、その屋上に黒い何かがいる。黒棘の狼だ。屋上の端から、地面を覗き込んでいる。そこには植え込みがあって、犬耳や猫耳を生やした初等部の少年少女たちが隠れ潜んでいる。
固まって逃げてきて、植え込みに潜んだのだろう。
(――いけない!)
聖十郎は、とっさに叫んだ。小さな体は、肉体が変異する前の声量を失っている。だが、届けと願いながら、叫んだ。
『上だ、危ない!』
ぐわん、と体内で何か、力の流れが生まれる。小さな口元、そして両耳に校章陣が浮かぶ。
――理解する。これが、なんなのか。
【念話魔法/テレパシー】が、稼働する。
飛ばした声は、音ではなく思念の波となって、少年少女の元へと届いた。彼らは、はっと空を見上げて、屋上の端から涎を垂らす黒棘の狼に気づく。
わあ、と蜘蛛の子を散らすように逃げ出すが、同時に、黒棘の狼の宙に身を躍らせ――ベシャ、と校章陣が激突して校舎の壁に体をめり込ませた。
「……助かった、真理愛。注意喚起だけじゃ、解決できんな」
「いえ、間に合って。でも……今のって」
ああ、と聖十郎がうなずいた。
「ダークフェアリーの特殊能力、【念話魔法/テレパシー】だ。一度、発動に成功しさえすれば、自然と使い方が理解できるな。不思議なことだ。……さっきから不思議なことしか起きていないがね」
加えてもうひとつ不思議なことに、聖十郎の精神に、活力が戻ってきていた。騒動を収めてどうなるか、だと?
「馬鹿馬鹿しい。困っている生徒がいて、私は生徒会長だ。ならば、やることはひとつしかあるまい。真理愛、もう少し高くまで飛んでくれるか」
聖十郎は、ぐっと眼下を睨みつけた。小さな体で、大きな学園を。
「テレパシーを使える相手は、視界に納めた範囲か、あるいは一度呼びかけたことのある相手だけだ。……如月院副会長。平岩監査委員長の言う通り、我々には責任を果たす義務がある」
「……もう名前呼びタイムは終わりですか? 残念です、黒揚羽生徒会長」
真理愛は唇を尖らせて、けれど嬉しそうにうなずいて、空へと飛び上がった。