魔法捜査官
喜多山 浪漫
第1話
『Serial killer(連続殺人鬼)』<14>
悪魔という表現すら陳腐に思えるほど、時任暗児の凶行は想像を絶した。
相当な覚悟を決めて真鍋愛美が封印した記憶を覗いたのに、とてもではないけれど最後まで正気を保っていられる自信がない。
真鍋愛美の震えながら命乞いする手。
生きたまま斬り刻まれてゆく彼女の苦悶の声。
時任暗児の欲望に醜くゆがんだ顔。
やつの狂ったような笑い声と、獣のような荒い息遣いが耳にこびりついて離れない。
むき出しになった人間の闇を覗き見たような気がして、激しい吐き気に襲われる。
けれども、今は吐いている場合じゃない。この悪魔のような男の居場所を突き止めるための手掛かりを何としても探し出さねば。
必死に吐き気と戦いながら周囲を見回すが、どれもこれもおぞましい光景ばかりで、頭が朦朧としてくる。正直、立っているのが精一杯だ。
「おっと。大丈夫ですか、捜査官殿」
背後からアルペジオの穏やかな声が響き、両肩に人の手のぬくもりを感じる。
しまった。つい倒れそうになったのか、僕は。
捜査官として職務を遂行しなければならない大事な場面で、この体たらく。さぞかし彼を失望させたことだろう。
「落ち着いて、捜査官殿。あの気の毒な女性の無念を晴らすために、どんな小さなヒントでも構いません。一緒に手掛かりを見つけましょう」
優しく励ますようなアルペジオの言葉に心が奮い立つ。
そうだ。吐き気がなんだ。苦しいのがなんだ。目の前で凌辱されている女性は僕の何十倍も苦しんだのだ。これしきのことで事件解決のヒントを手放したとあっては彼女にも、捜査に協力してくださった彼女の家族にも申し訳が立たない。
どんなにおぞましい光景だろうと目を逸らしてはならない。どんな過酷な状況下においても手掛かりを見つけるのが現場にいる捜査官、僕の役目なんだ。
「ありがとうございます、アルペジオさん。すみませんが、もう少しこのまま支えていてもらえませんか? 必ず……必ず手掛かりを見つけてみせますので」
「はい。お安い御用ですよ、捜査官殿」
それからしばらくして――
僕は吐き気と眩暈と悪戦苦闘しながらも、時任暗児の居場所を特定するための手掛かりを発見した。本来ならその内容をじっくりと精査したいところだが、タイムリミットが迫っている。
「捜査官殿。手掛かりも入手できたことですし、そろそろお暇しましょう」
「ええ、でもその前に一つだけ」
「どうしたんです? 何かやり残したことでも?」
あれだけ切実に、一刻も早く現実世界に戻りたいと願っていたのに、自ら限界ギリギリまで残業を申し出ることになるとは自分でも意外だった。しかし、これだけはやり残すわけにはいかない。
「アルペジオさん。真鍋愛美さんが封印していた記憶をすべて燃やしてもらえませんか」
「え?」
思いもよらない発言だったらしく、アルペジオは鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしている。前歯が欠けて間の抜けた顔がより一層抜けて見える。
真鍋愛美の記憶は、このまま放っておいても消滅することはわかっている。けど、あの惨たらしい記憶を1分でも1秒でもいいから早く消去してあげたい。
それで彼女が苦しみから解放されるかは定かではない。無駄かもしれないし、偽善かもしれない。それでも彼女が安らかに眠りにつけるように何かせずにはいられないのだ。
「……やはり、捜査官殿は優しい人ですね」
「……感傷的なだけです」
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タイムリミットの2時間ギリギリまで粘って遺体安置所へ戻った(正確には脳のアクセスを解除して意識を回復した)僕は、無事に現実世界へ帰ってこられた安心感からか、被害者・真鍋愛美の父親の前で恥も外聞もなく吐いた。
捜査から戻った途端に嘔吐する捜査官を見て、娘の身に起きた惨劇の凄まじさを改めて知らしめることになったのは誠に申し訳ない限りだが、何とかして手掛かりを入手できたため、恥じるところはない。……情けなくはあるけれども。
魔法犯罪捜査係の捜査官になる以前、新宿ニルヴァナイト猟奇通り魔事件の事後処理を担当したときに吐いて以来、これが犯罪現場での二度目の嘔吐になる。いずれも魔法犯罪の現場だから、この職務への適正に我ながら疑問が湧いてくる。
「なかなか盛大にゲロしましたね、捜査官殿」
トイレに移動して口をゆすいでいるところへアルペジオがやってきて背中をさすってくれる。
「どうも。大変お見苦しいところをお見せしまして。笑ってくれて結構ですよ。僕自身、こんな醜態をさらして情けないと思っていますから」
鏡に映る自分の顔を見ながら自虐的なセリフを口にする。
目は赤く充血し、唇は紫、顔は血の気が引いて普段よりも白い。酷い顔だ。
「情けないだなんて、とんでもない。捜査官殿は立派に任務を遂行されましたよ。だいたい、あんな光景を見て何も感じない人間がいたとしたら、それこそ被疑者と同類の異常者でしょう」
そう言いながら鏡に映ったアルペジオは何喰わぬ顔をしている。ということは、彼は同類の異常者なのだろうか?
いやいや。そんなはずがない。今回の捜査で彼に何度助けられたことか。彼は異常者でもなければ、噂されるような怪物でもない。アルペジオは魔法犯罪捜査係に所属する魔法使いであり、警察官。そして、僕の相棒だ。……少なくとも今のところは。
「ふぅ」
しかし、これからも幾度となく、このような壮絶な現場に臨まなければならないのか。すでに空っぽになったはずの胃袋がしくしくと痛み始める。
魔法犯罪の捜査を続けていくのなら、これからも人知を超えた異常な現場にも出くわすことだろう。魔法犯罪捜査係の捜査官としてそういった性質の任務を負っている以上、いちいち吐いていたら身体がもたない。こればかりは、どれだけ嫌でも慣れるしかない。
「正直、人間があそこまで残虐になれるとは思ってもみませんでした……」
警察官になってから何人かの凶悪犯罪者を見てきたが、時任暗児は明らかに人間の理解の範疇を超えている。あれが同じ人間のすることだろうか。
怪物――
自らの欲望のため、自ら魔法使いとなった時点で、時任暗児は人間であることを捨てたのかもしれない。
「確かに時任暗児は人間に分類することを躊躇うほどの異常犯罪者です。しかし、人間というものは時として大義名分さえあれば――代表的な事例としては戦争などにおいては、いくらでも残虐になれるものです。それこそ同じ人間を、敵であるという理由だけで容赦なく殺す。女子供でさえも未来の禍根を断つために皆殺しにする。先の大戦で使用された大量虐殺兵器は、大義名分さえ整えば何をしても許されるという人間の傲慢さと残虐性を示す典型的な事例だと思いますけど」
先の大戦で日本はアメリカを中心とする連合国軍に敗北した。その決め手となったのがアメリカの開発した核兵器、原子爆弾だ。
1945年8月6日、広島。
同年8月9日、長崎。
実戦で核兵器が使用されたのは後にも先にも人類史上この2発のみ。このたった2発の爆弾が広島においては14万人、長崎では7万人以上もの死者を出し、この世とは思えぬ阿鼻叫喚の地獄絵図をもたらした。これは明確に一般市民を巻き込んだ大量虐殺であり、核兵器の威力を実証するための壮大な人体実験だったと言える。
もちろん、反論もあろう。原子爆弾を投下しなければ日本の降伏は長引き、もっと多くの兵士と市民が死んだはず。だから原子爆弾の使用はやむを得なかった、という論調が当事者たるアメリカだけでなく、日本国内においても主流だ。
だが、果たしてそうだろうか。当時の日本軍が悪かった。だから仕方ない――そんな言葉で片づけていい問題ではないと思う。戦争終結という大義名分があるとはいえ、無辜の市民を大量に死なせる兵器の使用が正しかったと言い切れるのだろうか。僕としてはいかなる理由があろうとも無差別に市民を殺害するような戦い方を支持する気にはなれない。
アルペジオの言うように、人間は時として悪魔と呼ぶに相応しい残虐性を見せることがある。時任暗児のような異常犯罪者が個人の欲望を満たすために引き起こす非人道的な殺人事件もあれば、支配者が引き起こす正義の名のもとにおこなわれる非人道的な大量虐殺もある。1人殺せば犯罪者だが、100万人殺せば英雄だなんて皮肉なセリフもあるが、どちらも等しく吐き気をもよおす怪物の所業だ。
魔力の有無に関係なく、僕はそんな人間たちにこそ恐怖を覚えずにはいられない。