キマイラ文庫

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サマータイムモンスターズ

横田 純

021

異聞:枕木苗の冒険

 |枕木《まくらぎ》|苗《なえ》は5歳の少女である。

 田舎暮らしに憧れた両親に連れられて、この夏、夏摩村にやってきた。


 苗はおとなしい子だった。

 両親は共働きでほとんど家におらず、ひとりで過ごすことが多かった。


 現代の子育てでは子どもにスマホを渡す家庭が多い。

 しかし苗はスマホにほとんど興味を示さず、ずっと図鑑を読んでいた。


 むし。

 どうぶつ。

 くさばな。

 さかな。


 電車や乗り物には、あまり興味がなかった。

 苗は、木や、花や、虫や、自然の生き物に心を奪われていた。


「保育園ではいつも一人で遊んでいますね」


 保育園の先生からそう言われた両親は、少し心配していた。

 しかし、苗は別に平気だった。

 苗のお友達は、木であり、花であり、虫であり、自然そのものだった。


 木の枝を持って地面にすべらせると、土に溝ができて、絵や文字が書ける。

 地面にできた穴の中には、小さなアリが大きな巣を作っているらしい。


 雨が降った後には雨の匂いがして、雲の切れ間には虹がかかる。

 苗にとって、毎日が冒険だった。


 両親も最初は「お友達とも遊んだら?」と言っていたが、苗の様子を見ていて考えを改めた。

 そんなに自然が好きなら、思い切って田舎に移住するのはどうだろう?

 実は僕も前から憧れてたんだよね。

 あら私もよ。

 それなら苗が小学校に上がる前に……とトントン拍子に話が進んだ。


 夏摩村は苗にとって、最高の冒険の舞台だった。

 都会に住んでいた頃には見たこともない大きな木々。うるさいぐらいの蝉の声。

 小さな島にいた勇者が、いきなり新大陸に放り出されたような圧倒的冒険感。

 新しい家は古くてボロボロだったけど、苗にとっては最高の冒険の拠点だった。


 あの山を越えたら、あの橋を渡ったら、向こうには何があるんだろう。

 早く行ってみたい。

 でも、お父さんやお母さんに心配かけないようにしなくちゃ。


 苗の両親が田んぼのことを教わっている間、苗は|次春《つぐはる》と一緒にいた。

 次春は10歳、苗は5歳。子どもにとって、この年齢差はかなり大きい。

 次春は苗に気を使っていろんな質問をしてくれたけど、初めて会う「新大陸のお兄さん」に緊張して何も言えなかった。

 だけど、苗はずっとわくわくしていた。



 ◆ ◆ ◆


 8月1日。


 苗がひとりで村を散策していると、黒い子猫を見つけた。

 道の隅でうずくまって苦しそうにしている。どうやら怪我をしているみたいだ。


 苗は両手で黒猫を抱えて、安全な場所に運んであげようとした。

 でも、村のどこに何があるのか全然わからない。

 黒猫の呼吸が徐々に弱々しくなっていく。あまり時間がなさそうだ。


 そんな時、夏の夕立が苗を襲った。

 冷たい雨が苗と黒猫の体温を奪っていく。

 早くしなくちゃ。でもどこに運べばいいの?

 苗は泣きそうになりながら走り出した。


 苗が必死で走っていると、目の前が急に開けた。

 木の柵で囲まれた広い野原。牧場だった。


 柵の向こうに一軒の小屋が見える。

 あそこに入れば雨はしのげるかもしれない。

 苗は柵をくぐって、小屋の中に駆け込んだ。


 小屋の中は暗く、今まで嗅いだことがないツンとした匂いがした。

 汚れたバケツに名前もわからない農具、積み上げられた干し草。

 どうやらここは牛小屋の物置らしかった。


 苗は干し草の上に、そっと黒猫を寝かせた。


 その時、外からガタンという音がして小屋の扉が開いた。

 雨に濡れた高校生くらいの男が中に入ってきた。


 茶色のツナギの上半身を脱いで、袖の部分を腰に巻きつけている。

 白いタンクトップからはがっしりとした筋肉がのぞく。

 オールバックの長い金髪が、ライオンのたてがみのように見えて怖かった。


 ライオンのような男は、苗を見つけて動きを止めた。

 苗は「怒られる」と思って身を縮めたが、男は少し眉毛を動かしただけで、黒猫に視線を向けた。


「その猫、怪我してんのか?」


 男の声は優しかった。

 苗はびくびくしながら小さく頷く。

 男は苗の様子をちらっと見て、「お前も怪我してるじゃないか」と言った。

 |膝《ひざ》が|擦《す》りむけて血が出ていた。


「待ってろ」


 そう言って男は小屋の奥から救急箱と猫用のミルクらしきものを持ってきた。

 そして苗の膝の傷に消毒液をつけ、|絆創膏《ばんそうこう》を貼ってくれた。

 次に、黒猫を優しく持ち上げ、傷を確認すると手当てを始めた。


「お前、家はどこだ?」


 苗は新しい家の場所を説明できなかったが、「田んぼの……」というと、男はすぐに理解したようだった。


「あー。そういや、じいちゃんが都会から新しい家族が来たって言ってたな」


 それっきり男は一言もしゃべらず、テキパキと猫の手当てを済ませ、ミルクを飲ませた。

 黒猫はミルクを飲んでお腹がいっぱいになったのか、目を細めて苗を見つめている。

 さっきまで弱々しく呼吸していたのが嘘だったみたいに、猫の表情は穏やかに見えた。


「もう大丈夫だろう。猫、連れて帰るか?」


 苗は猫を連れて帰りたかったが、お父さんとお母さんがなんて言うかわからない。

 そのまま黙り込んで|俯《うつむ》いてしまった苗を見て、男が言う。


「……じゃあ、俺がここで面倒見てやる」


 男は小さな毛布を子猫の下に敷いて、柔らかい手つきで猫の体を|撫《な》でた。


「安心しろ。悪いようにはしねえよ」


 苗は、うれしかった。

 何か言わないとと思って、必死に言葉を絞り出した。


「……ありがとう」


 これまであまり話さなかった苗にとって、それは勇気のいる一言だった。


「お前、名前は?」


「……苗」


「俺は|獅子上《ししがみ》。獅子上|高秋《たかあき》だ」


「ししがみ……」


「ああ。また様子見に来いよ」


 そう言って、獅子上は笑った。


 雨が上がったのを確認し、獅子上は苗を家まで送り届けた。

 別れ際、苗は「また行く」と小さな声で言っていた。


 獅子上は小屋に戻ると再び黒猫と向き合った。

 |気になること《・・・・・・》があったからだ。


 苗の連れてきた黒い子猫――

 その背中には、鳥のような翼が生えていた。