キマイラ文庫

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サマータイムモンスターズ

横田 純

026

異聞:シュレディンガー

「シュレディンガー!?」


 小さな黒猫が獅子上の足元をすり抜け、地面を蹴り、今まさに腕を振り下ろさんとしているミノタウロスの腹に向かって体当たりした。



 ――ドゴォッ!!



「グガアアアアッ!!」



 ミノタウロスは耳をつんざくような悲鳴をあげて後方に吹き飛び、土埃を巻き上げながら畑に倒れ込んだ。

 倒れた後も勢いは止まらず、ミノタウロスはそのままゴロゴロと後ろ向きに転がり、ようやく止まった。



「なっ……!?」



 驚きのあまり全員が目を疑った。

 手のひらの上におさまるほどの小さな黒猫が、2メートルを超える魔物を正面から弾き飛ばしたのだ。


 着地したシュレディンガーは背中の翼を|威嚇《いかく》するように広げ、全身の毛を逆立てながら四肢を地面に踏ん張ってミノタウロスを鋭く|見据《みす》えている。

 先ほどの獅子上を|彷彿《ほうふつ》とさせるその姿。

 ミノタウロスの魔の手から全員を守ろうとしてくれているようだった。


「ウウウウ……!!」


 ミノタウロスは頭を振りながら立ち上がり、四つん|這《ば》いになってシュレディンガーに狙いを定める。


「ウウウ……! フシューッ! フシューッ!!」


 先ほどより荒くなっている鼻息がここまで聞こえてくる。

 豆粒みたいな小さい生物に吹き飛ばされ、プライドが傷ついたのかもしれない。


「ウガアアアアッ!!!!」


 ミノタウロスが地面を蹴って突進を始めようとした瞬間、シュレディンガーの体から強い光が放たれた。

 光の中で黒猫の体が何倍にも大きくなっていく。

 四肢はしなやかな筋肉に|覆《おお》われ、翼は今まで見たどんな鳥よりも大きく広がり、弱々しかったオッドアイは獲物を狙う捕食者のように鋭い眼光をたたえている。

 シュレディンガーは、翼を持った漆黒の虎のような姿に変化した。


「――へ、変身した!?」


 地面に尻餅をついたままの乙吉が叫ぶ。

 変身したシュレディンガーは鋭い牙を見せながら、ミノタウロスを|睨《にら》みつける。


「シュレディンガー……」


 苗は、さっきまで自分の腕の中にいた『小さな黒猫だった生き物』の姿を呆然と見つめながら、噛みしめるように|呟《つぶや》いた。


 強い光に|怯《ひる》んだミノタウロスは再び前進しようとしたが、その間にシュレディンガーは高速で距離を詰め、鋭い爪で強烈な一撃を放った。

 鞘の斬撃では傷ひとつ付けられなかった硬い皮膚が切り裂かれ、ミノタウロスは悲鳴をあげながらよろめく。シュレディンガーの攻撃はそれで終わらず、電光石火の連続攻撃で体力と戦意を奪っていく。

 圧倒的だった。


 激しい咆哮と打撃音が続いた後、シュレディンガーは地面に倒れたミノタウロスをは両腕で取り押さえ、首元に噛みついた。



 ビギッ。


 パリーン!



 ミノタウロスの体が粉々に砕け散り、静寂が訪れた。

 シュレディンガーがこちらを振り向く。

 その姿は、魔物そのものだった。



――相手は魔物だぞ。子猫のようでも、いつ凶暴化するかわからない。



 獅子上は、いつか鞘が言ったことを思い出していた。

 シュレディンガーはまだ戦闘態勢を解いていない。

 これから、どうする?


 その時、苗が乙吉の腕の間をすり抜けて、まっすぐシュレディンガーに向かっていった。


「苗ちゃん、危ない!」


 乙吉が叫ぶ。

 目の前に立ち止まった苗を見て、シュレディンガーは低く唸った。


「苗、下がれ!」


 獅子上も苗に声をかける。

 しかし、苗は首を振った。シュレディンガーの瞳をまっすぐに見つめ、背を伸ばして立っていた。


 獅子上は腰を落として体に力を入れ、鞘は再び刀を構える。

 二人とも、何かあったらすぐに飛びかかかるつもりだった。


 しかし、シュレディンガーは腹を地面につけるように四肢を伏せ、大きな頭を苗の方に|傾《かたむ》けた。

 苗はゆっくりシュレディンガーに手を伸ばし、一回、二回と頭を撫でた。


 その瞬間、シュレディンガーの体から再び強い光が放たれ、小さな黒猫の姿に戻った。


「シュレディンガー…!」


 苗はうれしそうに、シュレディンガーを両手でやさしく包み込むように抱きしめた。


「まいった……」


 ずっと地面に転がったまま様子を見ていた乙吉が、頭をかきながら|呟《つぶや》いた。



 苗がシュレディンガーを見ながら言う。


「わたし、気づいてた。この子が魔物かもしれないって」


 獅子上と鞘は苗の言葉を聞いて顔を見合わせる。


「でも、この子はいい子だよ。だってみんなを守ってくれたもん」


 シュレディンガーは今も苗の小さな腕の中で大切そうに抱えられている。

 その姿を見て、獅子上は決めた。


「……そうだな。シュレディンガーはやさしい魔物だ」


「獅子上」


 鞘は「それでいいのか」とたしなめるように、獅子上に鋭い目つきを向けた。

 だが、獅子上の表情に一切の迷いがないことを確認すると、諦めて笑みを浮かべた。


「……まあ、シュレディンガーが守ってくれなかったら、私たちは全員殺されていたからな」


 獅子上と乙吉が頷く。

 苗も『厳しいお姉さん』に認めてもらい、安心したようだった。


「まさか変身するとは。あれはブラックタイガーだな」


「鞘ちゃん、そりゃエビだ」


 乙吉の一言で、ようやく場の緊張がほぐれた。

 いまだ小刻みに震える体が、ミノタウロス襲撃の余韻を物語っていた。



「とにかく、今日のことでわかったのは、危険な魔物がまだ村にいるってことだ」


 獅子上が真剣な表情で言った。


「魔物にも性格や種族があって、中にはいい魔物もいるのかもしれないが、俺たちだけで戦い続けるのは無理だ」


 それを聞いて、乙吉が思い出したように話を|遮《さえぎ》る。


「そういや知ってるか? 今、村の中学生たちが集まって防衛隊ごっこしてるらしいぜ」


「防衛隊?」


「大学のエライ先生も来てるらしい。大人はだーれも相手にしてねぇけど、もしかしたら俺達と考えてることは一緒なのかもな」


 乙吉の言葉に獅子上と鞘は興味を示した。

 魔物と戦う仲間がいるなら、力を合わせた方がいいだろう。


「話を聞いてみるか」


「そうだな」


 鞘も頷いた。


「苗。お前もシュレディンガーと一緒に来るか?」


 苗は驚いた顔をして聞き返す。


「わたし……行っていいの?」


「ああ。村のみんなにシュレディンガーのことを紹介しないとな」


 それを聞いて、苗は心からうれしそうに頷いた。


「シュレディンガー、いっしょにいこうっ」


 小さな黒猫は苗の腕の中で「ニャアオ」と鳴いた。

 そして苗は獅子上の足元に駆け寄り、獅子上の顔を見上げて言った。


「シシガミさん……ありがとう」


 獅子上は苗の頭をやさしく撫でた。




 こうして4人と1匹は、夏摩防衛隊への入隊を決意したのだった。