サマータイムモンスターズ
横田 純
038
余白:皆本和寿真の恋
|皆本《みなもと》|和寿真《かずま》は32歳の男性である。
夏摩村の商店街に店を構える駄菓子屋『皆本商店』の店主で、村の子どもたちからは「ガジュマ」と呼ばれて親しまれている。
和寿真が夏摩村に戻ってきたのは2年前──
それなりに、いろいろあった。
和寿真の両親は都会に本社を持つ大手商社に勤めていた。
父は営業マンとして海外駐在や転勤をくり返し、母は同じ商社の管理部門で働いていた。
二人とも優秀でタフだったが、子育てと仕事の両立は困難を極めた。
家庭会議の末、「中途半端に転校をくり返すより落ち着いて育てた方がいい」という結論に達し、和寿真は祖父母に預けられることになった。
こうして和寿真は小学生に上がる頃から、父方の祖父の|正治《しょうじ》と祖母のトシに育てられた。
正治は昔気質の厳格な男で、「商店は地域のためになる」という信念を持っていた。
地元を愛し、住民から一目置かれ、自治会長も務めていたことがある。
和寿真には「男はこうあるべきだ」と厳しく接していた。
トシは温厚で細やかな性格で、店の看板娘として長年愛されてきた。
商売上手で、特に子どもたちや客との世間話を大切にしていた。
和寿真にとって、祖母は精神的な|拠《よ》り|所《どころ》だった。
和寿真にとって両親は「正月に顔を出す人」でしかなかった。
結果、和寿真の中には「大事にされなかった」というわだかまりが残った。
多感な時期を共に過ごした祖父母こそが本当の家族であり、皆本商店こそが自分の居場所だった。
地元の大学を卒業した後、和寿真は都会の企業に就職した。
村は好きだったが都会にも出てみたい。若者なら誰でも思う、ちょっとした憧れ。
その結果、和寿真は自分を見失った。
仕事で直面する数々の選択肢を、和寿真はことごとく間違えた。
できるやつだと思われたい一心で、頼まれごとをすべて引き受けた。
本当はやりたくないことでも、立場や査定を考えて、望まぬ選択をした。
その中に、和寿真のやりたいことはひとつもなかった。
自身の限界を超える仕事を|捌《さば》きながら、和寿真は結果を出し続けた。
理不尽な叱責にも耐え、会社の指示に従い、汚いこともやった。
働きぶりが評価され、出世コースにも乗った。
ただ、|なにも楽しくない《・・・・・・・・》。
結果と引き換えに、なにか大切なものが失われていくような感覚。
和寿真には向いていなかったのだ。
自分は親と同じようには生きられない。
自分の根っこにあるのは田舎の人間関係であり、地元の空気感。
それを痛感する日々だった。
そんな時、祖父から電話があった。
「そろそろ店を閉めようと思ってる」
それを聞いた時、胸をぐっと締めつけられるような気がした。
電話越しに聞こえた祖父の声は、考えられないほど弱々しかった。
このままじゃ、俺の居場所がなくなる――
「それは嫌だ。閉めるなら俺がやる」
和寿真は迷わずそう答えていた。
こうして和寿真は夏摩村に戻り、皆本商店を継いだ。
厳しかった祖父も、今は「お前のやりたいようにやれ」と言ってくれる。
祖母は和寿真の好物をよく覚えていて、昔と同じ食事を作ってくれる。
ああ、やっぱりここが俺の居場所だ。
両親が自分にしたことは間違いだ。
仕事はできるのかもしれないが、子どもをあんな気持ちにさせてはいけない。
だから和寿真は村の子どもたちと同じ目線に立ち、全員と別け|隔《へだ》てなく付き合っていた。
駄菓子屋の店主として村で過ごす日々は楽しかった。
しかし、和寿真の心の奥底には誰にも言えない思いがあった。
──俺の中には『余白』がある。
両親の愛情を十分に感じられなかったせいなのか。
両親と同じように都会に出て働いたが、うまくやれなかったせいなのか。
とにかく、自分の中には空虚な部分がある。
そのせいで「俺は不完全な人間だ」という感情を拭い去れずにいた。
◆ ◆ ◆
8月8日。
今日もよく晴れた青空が広がっていた。
皆本商店の店先で駄菓子の段ボール箱を整理していた和寿真は、斜向かいの喫茶店の軒先に人影が現れるのを見つけた。
「おはようございます」
軽やかな声と共に、|月待《つきまち》アンナが店の扉を開けて外に出てくる。
白いブラウスに緑のエプロン。肩まで伸ばした赤髪が朝日に輝いて見えた。
和寿真は、つい見とれてしまった。
店先に看板を置いたアンナは、和寿真に気づいて笑いかけながら手を振ってくれた。
和寿真も慌てて手を振り返す。
段ボール箱を持ったまま手を振ったので、バランスを崩してよろめいた。
「あ、危ない……」
アンナが心配そうな声を上げる。
和寿真は慌てて「大丈夫です!」と返事をしたが、顔が真っ赤になっているのは自分でもわかった。
アンナは3年前に夏摩村にやってきた。
歳は確か24歳。ここに来る前は都会の大学に通っていたと誰かが言っていた。
今はこの村にひとつしかない喫茶『ヤングマン』に住み込みで働いている。
アンナの笑顔は温かく、店に来る客の話をいつもにこやかに聞いている。
都会から来たのに偉ぶらず素直で、自分のことをあまり話さない。
それが村の住民には気持ちが良かったのか、喫茶店はアンナが来てから売上が3倍に伸びた。
あまりにもアンナの仕事ぶりが良いので、今ではアンナがほぼ一人で店を回している。
その結果、マスターは店の奥で休んでいるか、パチンコに出かけているかの二択になった。
和寿真が知っているのはそれだけだった。
「ガジュマ! 今日もいい天気だな!」
後ろから声をかけられて振り返る。
そこには警官の制服を着た|浜松《はままつ》|傑《すぐる》がいた。
浜松は村の駐在で、和寿真の同級生。
他の同級生はほとんど村を出ているので、和寿真の出戻りが嬉しいらしい。
勤務中にたびたび駄菓子屋を訪れていた。
「朝からアンナちゃんと見つめ合ってたのか?」
「見つめ合ってないよ!」
和寿真は慌てて否定するが、浜松はにやにやしながら言った。
「アンナちゃん、こいつなんでガジュマって呼ばれてるか知ってる?」
「え? なんでですか?」
アンナが興味深そうに近づいてくる。
「こいつ昔ずっと鼻たらしててさぁ。自己紹介の時に『みなもとガジュマでつ』って言ったんだよ」
「またそれかよ。何回するんだその話」
和寿真が文句を言うと、アンナは「仲いいんですね」と笑った。
その笑顔に、和寿真は見とれてしまう。
「じゃあ私、仕事があるので」
アンナがその場を後にすると、浜松が肘で和寿真の脇腹をつついた。
「お前、惚れてるな」
「ほ、ほれてねぇよぉ」
和寿真の顔が真っ赤になる。浜松は無邪気な顔で言った。
「いけるかもしんねぇぞ。お前もアンナちゃんも都会から来てるから、ずっと村にいた人間とは感覚が違う。お互い気持ちがわかるとこもあるだろ。ぐぐっと距離を縮めていけ」
浜松の言葉で、和寿真の胸の奥で何かが弾けるような感覚があった。
喫茶店の看板を眺めながら、和寿真は強くアンナを意識していた。
今日という日が、何か特別な日になる予感がしていた。