サマータイムモンスターズ
横田 純
067
決戦前夜
8月30日。
魔獣を倒し、魔王城に脚が生えてから数日間。
僕らは毎日顔を合わせて最終決戦に備えてきた。
技の特訓。魔石の再確認。フォーメーション。
様々な状況を想定して作戦を練った。
魔王城はあれから一度も消えることなく、山肌に脚をかけたまま静止している。
村を眺めながら最後の瞬間を待つように──不気味に佇んでいた。
不安は消えないが、やるべきことはやった。
胸を張ってそう言える。
最後の訓練を終えて家に帰ろうとした時、スマホが震えた。
夏摩村の市外局番から始まる、知らない番号からの着信。
恐る恐る出てみると、相手は名乗りもせずに言った。
〈スケキヨ岩に来い。話がある〉
この|嗄《しゃが》れ声は聞き覚えがある。
ソクラテスだ。
◆ ◆ ◆
日が沈みかけた頃、僕はスケキヨ岩の前に着いた。
ソクラテスは岩の前に立ち、じっと空を見上げていた。
「来たか」
ソクラテスは振り返らずに言った。
「お前がリーダーなんだろう? お前にだけは話しておこうと思ってな」
夕暮れの光が、スケキヨ岩の表面を赤く染めていた。
地面に伸びたソクラテスの影が、岩の影と重なっている。
ソクラテスはしばらく黙っていた。
やがて、岩に向かって小さく頭を下げた。
「るしへるについて、全員の前では言っていなかったことがある」
そして、ゆっくりと僕を振り返る。
「るしへるは、一体では魔物の大群を退けることが|できなかった《・・・・・・》」
「え……?」
「るしへるは異界から来た存在だ。そのままではこの世界で十分に力を振るえなかった」
ソクラテスの視線が、スケキヨ岩へ向かう。
「環境に適応する必要があった。力を増幅させる『|器《うつわ》』が必要だった」
「器……?」
「ああ」
ソクラテスは、低い声で言った。
「|人間《・・》だ」
背筋が冷えた。
「るしへるは、人間と融合した。そうすることで、初めてこの世界で戦えるようになった」
僕はすぐに言葉を返せなかった。
100年前、るしへると融合して戦った人間がいる。
それは──。
「|神明《しんめい》|清始郎《きよしろう》」
ソクラテスは、僕を真っ直ぐに見た。
「お前のひいおじいさんだ」
和室の鴨居に飾られていた、大判の白黒写真。
和服を着て、凛と立つ若い男性。
――俺は会ったことないんだよ。|俺の親父が生まれる前《・・・・・・・・・・》に亡くなったらしいから。
父さんが、そう言っていた。
あの人が。
るしへると融合した。
「清始郎は村を救うために魔物になった」
ソクラテスはスケキヨ岩に近づき、岩肌をゆっくりと撫でた。
「だからな。この岩は、清始郎でもあるんだよ」
その言葉で、すべてが繋がった気がした。
ソクラテスが毎日、スケキヨ岩を拝んでいた理由。
誰とも話さず、何十年もこの場所に通い続けていた理由。
「……ソクラテスさんは、僕のひいおじいさんと友達だったんですか」
「ああ」
ソクラテスは岩に手を置いたまま、少しだけ笑った。
「清始郎は、俺の親友だった」
その声が、わずかに震えていた。
「当時、俺は11歳。清始郎は17歳。6つも離れていたが、あいつは俺を子ども扱いしなかった。いつも対等に話してくれた」
ソクラテスは、遠い昔を見るように目を細める。
「誰からも好かれる、いい男だったよ」
風が吹いた。
夏草が、ざわざわと揺れる。
「あいつは最後まで笑っていた。俺がやらなきゃ誰がやる、ってな」
ソクラテスは、岩肌を撫でる手に力を込めた。
「馬鹿な奴だったよ」
しばらく、ソクラテスは何も言わなかった。
ただ、岩に置いた手だけが、かすかに震えていた。
やがて、静かに手を離す。
「もうひとつ、話しておくことがある」
「もうひとつ……?」
「資料館にあった古書に和訳を書き込んだのは俺だ。そこまでは話したな」
「はい」
「だが、あの本を|どうやって《・・・・・》|手に入れたのか《・・・・・・・》は、まだ話していなかった」
ソクラテスは空を見上げた。
「100年前の夏、俺はある女と出会った」
その女は、赤毛で、青い目をしていたという。
年齢はわからなかった。
10代の少女にも見えたし、30代と言われても納得できる。
突然ふっと消えてしまいそうな、不思議な雰囲気の女だった。
「女は村を歩いていた。あてもなく、ただ眺めるようにな」
「話しかけたんですか?」
「ああ。だが、言葉は通じなかった」
真夏の陽射しの下。
女は力なく、ゆらゆらと歩いていた。
だから、ソクラテスは水を渡した。
「女はうまそうに水を飲んだ。それから少し微笑んで、俺に一冊の本を渡した」
「その本が……」
ソクラテスは、ゆっくりとうなずいた。
「サマータイム・モンスターズだ」
胸の奥が、ざわついた。
「その時の俺は、たいして気にも留めなかった。英語で書かれた本なんて、子どもに読める代物じゃない。すぐに忘れて、友達のところへ遊びに行った」
「その女の人は……?」
「それきりだ」
ソクラテスは首を横に振った。
「女を見たのは、その一度だけ。そして、襲撃が起こったのは翌日だった」
ソクラテスは、淡々と続ける。
「俺が本を読んだのは何年も後だ。辞書を頼りに少しずつ訳した。そして驚いた。そこには、この村で起きたことが書かれていた。だとすれば、次にやつらが来るのは2025年。その時思ったんだ。それまで俺は死ぬわけにはいかねえって」
僕は何も言えなかった。
100年間。
ソクラテスは、ずっとこの夏のために生きてきた。
親友を失い。村人から変わり者扱いされても。
それでも一人で、村を見守り続けてきた。
「俺は思うんだよ」
ソクラテスが言った。
「あの時出会ったあの女が、ケリー・ガゼルマインだったんじゃないかって」
「ガゼルマインって……本の作者の? 500年も前の人ですよ」
「お前も知っているだろう。ガゼルマインは錬金術と黒魔術を操り、不老不死の研究をしていた」
湯水准教授から聞いた話。
処刑されたガゼルマインの家の中には、こう書かれていた。
I will surely be resurrected.
(わたしは必ず蘇る)
「もし、100年前に現れた赤毛の女性がガゼルマインなら……なぜこの村に来たんですか?」
「決まってるだろ。|現場を見に来た《・・・・・・・》んだ。それ以外に考えられない」
「そんな……」
「もしかしたら、今もいるのかもな。この村のどこかに」
「赤毛で青い目の女の人なんて、一度も見かけてませんよ」
「髪や目の色なんて今時どうにでもなるだろう」
「たしかに、そうですけど……」
僕は言葉に詰まった。
ガゼルマインが不老不死なら、時間はいくらでもある。
100年あれば、日本人と遜色のない日本語だって話せるようになるだろう。
化粧をすれば老けた顔にだってなれる。
ぱっと見の年齢なんてアテにならない。
じゃあ今、村の中にいる誰かが──?
「おい」
低い声に呼び戻され、僕は我に返った。
「今考えても仕方ないことを考えるな。お前のやるべきことはなんだ? それに集中しろ」
叱るというより、迷いそうになる僕を元の道に戻すような声だった。
「正直言うとな、あれは本当にあったことなのか、自分でもわからなくなるんだ。あの後、友達の誰に聞いても『そんな女は見なかった』と言っていた。この本だって、あの女からもらったと思い込んでいるだけで、本当は俺が古本屋かどこかで見つけてきたのかもしれない」
ソクラテスの横顔は、もうこちらを見ていなかった。
視線は空へ向いている。
けれど、その目が見ているのは、今の空ではないように思えた。
「もう100年も昔のことだ。すべては夏が見せた幻だったのかもしれない。だが、あの時見たあの女の顔だけは、今も目に焼きついている」
その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。
「幻かもしれないと思うのに、今もどこかにいる気がする。あの女こそが、一番の魔物なのかもしれない」
夜風が吹き抜けた。
いつの間にか日は落ち、スケキヨ岩が月明かりに照らされている。
「……明日、僕らは勝てますか」
答えは返ってこなかった。
ソクラテスの視線は、スケキヨ岩に向けられたままだった。
月明かりを浴びた岩肌は、黙って何かを聞いているように見えた。
長い沈黙のあと、かすれた声が落ちた。
「だが、やるしかない。お前のひいおじいさんも、そうやって戦った」
僕は|頷《うなず》いた。
やるべきことはひとつ。
この村を守ること。それだけだ。
◆ 最終決戦まで 残り1日