エトランジュ オーヴァーロード ~反省しない悪役令嬢、地獄に堕ちて華麗なるハッピーライフ無双~
喜多山 浪漫
episode121
悪役令嬢、人生最大のピンチ。
地獄に堕ちたときも、闇魔法を使えなくなったときも、罰が当たったとは思わなかった。
自らの生き方に何ら恥じるところはなかったし、神なんて信じていなかったからだ。
こうして神に弓引かんとしているときでさえ、天罰が下るとは微塵も考えていなかった。
しかしだ。
しかし、そんなワタクシであっても、さすがにこれは神の怒りを買ってしまった罰なのではないかという気がしてきた。
ゴキブリ。
目の前に迫る恐怖の象徴。空飛ぶ黒い災厄。
ゴキブリは人類が何世紀にもわたって歴史を紡いでいった遥か以前から存在していた、昆虫類の中でも最古の生物である。
異常気象の時代も大飢饉の時代も生き抜く生命力。森でも山でも民家でも王城でも所かまわず増殖する繁殖力。驚愕の瞬発力とスピード。時には人間を恐れず、いきなり顔面めがけて飛んでくる理解不能な行動。すべてが脅威と恐怖に満ちている。
ゴキブリだけはダメ。
ゴキブリだけは無理。
もうゴキブリという単語を口にするのも頭に思い浮かべるのも嫌なので、今後は「G」と呼ぶことにする。
そのGが神の使徒である天使として、今まさに押し寄せる黒い波のようにうねりを上げながら襲い掛かってこようとしている。
それも特大サイズ。1メートルはあろうかという巨大なGがだ。
多少乙女にあるまじき叫び声を上げようとも、多少公爵令嬢に相応しくない醜態をさらそうとも、多少魔王の威厳を損ないかねない言動をしようとも、どうか許してほしいものである。
「ぎゃあああああああああぁぁぁぁあああああぁぁぁ!!!!!??????」
「うきゃきゃきゃきゃぁぁあああああぁぁぁああああ!!!!!!!!!!!」
「ひぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃいいぃぃぃぃいぃぃぃ!!!!!??????」
天使の正体がGだなんて、そんなの聞いてない。
もしも知っていたら、いくらジュエル救出のためとはいえ天国へ侵攻することをためらっていたはずだ。
混乱するワタクシを尻目に仲間たちは冷静に巨大Gたちを撃ち落としていく。
「ご主人様がこんなに怯えるなんて……意外なのであります」
「エトランジュちゃんも苦手なものの前じゃ、ただの女の子だってことね」
「ご主人様の弱点……いいこと知っちゃった。ひゃは☆」
仲間たちが何やら小声で口々にしゃべっているようだが、混乱のあまり聞き取ることができない。
彼らはおしゃべりしながらも黒猫型移動要塞マカロンに搭載されている機銃でGたちを撃墜していく。しかし一向に数が減らない。とにかく数が多すぎるのだ。
視界がどんどん黒く埋め尽くされていく。これはGの大群によって実際に黒くなっていることと、お先真っ暗というワタクシのメンタルの両方とが作用しているからに他ならない。
「落ち着け! 落ち着くのじゃ、エトランジュ」
魔王直属近衛隊長の親友アリアがワタクシの両肩を抱くようにして揺り動かす。
う・あ・あ・あ・あ・あ・あ。
万力に挟まれたように身動きの取れないワタクシは、抵抗できずに壊れた人形のようにカクカクと揺らされる。このままでは二次災害で脳震盪を起こしてしまいそうだ。
「相手はただのゴキブリではないか。魔王エトランジュともあろう者が何を怯えておるのじゃ」
そんなこと言われたって無理なものは無理。怖いものは怖い。
だが、言い返す気力も湧かず、すでに戦闘不能状態のワタクシは、アリアの腕の動きに合わせてカクカク揺らされることしかできない。
「アリア姫。エトランジュお嬢様は幼い頃からゴキブリだけはダメなのです。お嬢様の辞書から『恐怖』の二文字が今なお消せないのは彼らゴキブリが存在するからなのです。これはもう理屈ではなく本能に根差した恐怖なので、どうしようもありません。お嬢様のことはどうか諦めてください」
「……あいわかった。致し方あるまい。では、皆の者、戦線離脱したエトランジュに代わって親友たるわらわがこの戦いの指揮を執るぞ! よいな!?」
「「「「「おう!!」」」」」
魔王代理の名乗りを上げたアリアに対して、仲間たちが一斉に拳を上げて呼応する。
本来なら総参謀長のエリトが代理を務めるか、魔王経験者であるネコタローかアホーボーンが指揮を執ってしかるべき場面ではある。
しかし、我が地獄の軍団は良く言えば臨機応変、もっと良く言えば自由奔放。普段からワタクシの薫陶よろしきを得ている彼らは、身分や立場に関係なく、そのときのノリと勢いで行動するのだ。
「おーし、そんじゃあ、指揮官も変わったことだし、音楽も変えて盛り上げていこうか! イグナシオ坊ちゃん! ドヴォルザークの『新世界』第4楽章を頼むぜ!!」
はいはい、と言いながらイグナシオがボタン操作する。
流れ始めたのは、いかにもこれが最終決戦とでも言わんばかりの壮大にして荘厳な楽曲だった。
シュワルツ曰く、この曲も地球の作曲家アントニン・ドヴォルザークの手による交響曲第9番『新世界』より第4楽章だそうだ。
「主砲三連斉射!!」
「弾幕が薄い! 何をやっておるのじゃ!」
「皆の者、一匹たりとも通すでないぞ!!」
丸太のような腕で腕組みをしながら、酒樽のようにふくよかな体躯で仁王立ちするアリアが、てきぱきと的確な指示を出していく。
さすがは我が親友、さすがはサキュバス一族の女王の一人娘。この分なら安心して指揮を任せられそうだ。
しかし、そのときだった。起きてはならないことが起きてしまった。
弾幕をかいくぐり、黒猫型移動要塞マカロンに突撃してきたGが正面の大窓にペッタリと張り付いたのだ。
カサカサ。カサカサ。
さらにもう一匹。
カサカサ。カサカサ。カサカサ。カサカサ。
五匹、十匹、二十匹と倍々ゲームで数が増えていく。
白昼堂々と繰り広げられる悪夢に、ワタクシのメンタルはついに限界に達し、崩壊した。
「むきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃーーーーーーーー!!!!!!!!!!!」
「お嬢様がブチ切れた!!? ……いけない! クックさん、アリア姫、至急お嬢様を取り押さえてください!!」
ワタクシの異変にいち早く気づいたスイーティアが慌てて指示を出すも、時すでに遅し。
無意識化で防衛本能を働かせたワタクシが闇魔法の詠唱を終えたところだった。
「……僭越ながらエトランジュお嬢様。ここは艦内でございますが?」
……あ。
そうだった。
ジュエルの冷静な声に我を取り戻したときには、後の祭り。
ワタクシの右手から闇魔法の禁呪、メテオが放れた後だった。
ドゴーン!
ドガーン!
ズガガガーーーン!!
Gごと顔面の一部を吹き飛ばされた哀れな黒猫型移動要塞マカロンは、黒煙を噴き上げながら緩やかに重力に従い、墜落していくのであった。
ごめん、マカロン。
ごめん、みんな……。